「木曽谷」の版間の差分

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当初は[[美濃国]][[恵那郡]]に属していたが、[[信濃国]]と所属がしばしば争われた。[[9世紀]]後半の[[貞観 (日本)|貞観]]年間には勅命により、朝廷より藤原([[朝臣]])正範と靭負([[直 (姓)|直]])継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曽谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守[[満誓|笠麻呂]]、美濃少掾の門部([[連]])御立、美濃大目の山口([[忌寸]])兄人らがここに吉蘇路を開通させた。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がないという。この報告によって、朝廷は木曽谷を美濃国と決めた。
 
そして[[元慶]]3年9(879年)9月に懸坂上岑([[木祖村]]と旧[[奈川村]]との境界にある堺峠)と([[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]])を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。[[承平天慶の乱]]では木曽谷の警護のため朝廷から岐曽道使が派遣された。
 
古代末期から中世初期にかけて、王滝川を挟んで北側の大吉祖荘([[藤原親綱|宗像少輔]]領)と、南側の小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が史料上に現れ、中世中期([[14世紀]])頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。[[元徳]]元(1329年)の[[検注]]文書によれば、小木曽荘内には、水野保、永野保、吉野保の3つの[[保]]があった。14世紀までに[[常陸国]]の[[真壁氏]]が[[地頭]]として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、[[建武の乱]]の勲功で[[足利尊氏]]から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた[[上野国]][[沼田氏]]が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は当初、[[藤原秀郷]]の末裔を自称したが、後世、源義仲の末裔を称して[[木曾氏]]と名乗った。
 
15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れる。美濃国恵那郡であった木曽全域が信濃国になった時期について、[[信州大学]]人文学部の[[山本英二]]准教授が大桑村の[[定勝寺]]の古文書の回向文の中から年代が分かる5点で、[[1491年]]には、美濃州恵那郡木曽庄とあるが、[[1515年]]には、信濃州木曽荘と書かれていたので木曽が美濃国恵那郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。 16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。[[江戸時代]]初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信濃である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村(いずれも[[信濃川]]水系)とともに[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)、[[尾張藩]]に組み入れられた。その後、[[ヒノキ]]を中心とする林業が隆盛した。(詳細→[[#林業]]節)
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