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『書紀』の推古天皇元年[[1月15日 (旧暦)|正月15日]]([[593年]][[2月21日]])の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に[[仏舎利]]を置く」との記事があり、翌日の[[1月16日 (旧暦)|16日]]([[2月22日]])に「刹柱を建つ」とある。なお[[昭和]]32年([[1957年]])の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない<ref>大脇 (1989) p.29</ref>。
 
『書紀』の[[推古天皇]]4年([[596年]])11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、[[恵慈]](高句麗僧)と[[慧聡|恵聡]](百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像([[鞍作止利]]作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年([[605年]])、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。これとは別に、[[久野健]]、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。この弥勒石像は[[敏達天皇]]13年([[584年]])[[甲賀氏#鹿深臣|鹿深臣]](かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている<ref>大脇 (1989) pp.45 - 52</ref>。
 
飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、昭和31〜32年([[1956年|1956]]〜1957年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
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