「四式戦闘機」の版間の差分

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[[ファイル:Thomas McGuire.jpg|thumb|right|200px|トーマス・マクガイア少佐とP-38]]
特筆に価する戦果としてフィリピン航空戦中の1945年1月7日、[[ネグロス島]]上空において[[飛行第71戦隊]]の[[福田瑞則]](ふくだみずのり)[[軍曹]]が操縦する四式戦が、アメリカ全軍第2位のエース(38機撃墜)である[[トーマス・マクガイア]]少佐のP-38Lを事実上撃墜している。哨戒飛行を任務に長機マクガイア少佐(第431戦闘飛行隊長)、2番機エドゥイン・ウィーバー大尉([[北アフリカ戦線]]従軍経験有)、3番機ジャック・リットメイア少佐(フィリピン航空戦で既に4機撃墜記録)、4番機ダグラス・スロップ少尉(出撃53回、1機撃墜記録)からなら第431戦闘飛行隊P-38Lの4機編隊は、7日午前6時30分に[[レイテ島]]ドラッグ飛行場を離陸開始(途中、リットメイア機はエンジン不調によりスロップ機と編隊位置を交代)。福田の証言では、第71戦隊は同日[[ルソン島]]へ向かう大艦船団発見の報告により、午前3時30分150kg爆弾を搭載した福田軍曹機・三浦軍曹機が単機ごとの索敵攻撃のため[[マナプラ]]飛行場を離陸(当時の第71戦隊は消耗により単機地上攻撃任務が主体)。しかし予定地点で船団を発見出来なかったため6時に索敵を中止、帰還中の6時30分頃に[[バコロド]]上空高度1,000m付近で[[飛行第54戦隊]][[杉本明]]准尉操縦の一式戦と遭遇し、しばらくの編隊飛行ののち[[タリサイ]]上空で別れた。マナプラ飛行場への着陸コースに入った四式戦福田機は、先程の一式戦杉本機が哨戒飛行中であった4機のP-38マクガイア編隊と空戦中のところを発見(この際P-38 1機が炎上墜落中、一式戦は不時着のため降下中を確認)、福田機はP-38 3機に突進し対進戦で撃ち合い先頭の1機を撃墜するも被弾。その後も四式戦福田機は残る2機と1分ほど格闘し1機を撃破。双方は空戦場を離脱し戦闘は終了、福田機は着陸時に転覆しのちに廃棄処分となったが福田自身は軽傷ですんだ<ref>秦郁彦 『太平洋戦争航空史話 (上)』 中央公論社、1995年、pp.44-46</ref>。離脱したスロップ機は午前7時55分、ウィーバー機は8時5分頃にドラッグ飛行場へ帰還着陸した。実際にこの空戦において、マクガイア機・リットメイア機が撃墜され両名は未帰還・戦死しているが(杉本准尉は被弾のため不時着するも、地上で抗日ゲリラによって射殺された遺体を現地日本軍守備隊が発見)、詳細は明らかになっていない。一式戦杉本機が1度目の戦闘でマクガイア機を撃墜し(超低空域の格闘戦で一式戦に追随するため無理な急旋回を行い失速・墜落するマニューバキル)、四式戦福田機は2度目の戦闘でまずスロップ機を撃破し続いてリットメイア機を撃墜したという説明もあるなど<ref>『太平洋戦争航空史話』 p.50</ref>、乱戦ゆえに四式戦福田機・一式戦杉本機どちらがマクガイア機は低空リットメイア低速で無理な撃墜し試みのかは詳細は不明であり、協同撃墜もいえる。福田軍曹は当時[[マラリア]]の高熱により意識朦朧状態であり、かつ乗機は失速・墜下タンクと150kg爆弾を搭載したままで(空戦発見時は味方宿舎上空のため投下出来ず)、マクガイア編隊も(落下タンク投下を拒む空戦突入後の)マクガイア少佐の無線電話指示によりこちらも落下タンクを抱たまま、高度1,000m以下の低空域で空戦を行っている。ちなみに、福田軍曹は[[陸軍少年飛行兵]]第10期で1944年5月に第71戦隊へ着任し11月に戦隊ととう説にフィリピンへ進出、操縦時間が少なく今まで実戦経験もなくこれが最初の空戦らしい空戦体験でったにもかかわらずこの大戦果を挙げ、この1ヵ月後にネグロス島を脱出し本土へ後退、[[飛行第101戦隊]]に転属し[[沖縄戦]]も四式戦で戦い終戦を迎えた。戦後の[[1974年]](昭和49年)には第475戦闘航空群(第431戦闘飛行隊の上級部隊)の戦友会に、本空戦を調査した[[秦郁彦]]の手引によって福田はメッセージを届けてい<ref>『太平洋戦争航空史話』 p.43・51・52</ref>
 
福田軍曹は当時[[マラリア]]の高熱により意識朦朧状態であり、かつ乗機は落下タンクと150kg爆弾を搭載したままで(空戦発見時は味方宿舎上空のため投下出来ず)、マクガイア編隊もマクガイアの無線指示によりこちらも落下タンクを投下しないまま、高度1,000m以下の低空域で空戦を行っている。ちなみに、福田軍曹は[[陸軍少年飛行兵]]第10期で1944年5月に第71戦隊へ着任し11月に戦隊とともにフィリピンへ進出、操縦時間が少なく今まで実戦経験もなくこれが最初の空戦らしい空戦体験であったにもかかわらずこの大戦果を挙げ、この1ヵ月後にネグロス島を脱出し本土へ後退、[[飛行第101戦隊]]に転属し[[沖縄戦]]も四式戦で戦い終戦を迎えた。戦後の[[1974年]](昭和49年)には第475戦闘航空群(第431戦闘飛行隊の上級部隊)の戦友会に、本空戦を調査した[[秦郁彦]]の手引によって福田はメッセージを届けている<ref>『太平洋戦争航空史話』 p.43・51・52</ref>。
{{main|トーマス・マクガイア#経歴#最期}}
中国航空戦末期の12月18日、漢口をB-29を含む戦爆連合大編隊が波状攻撃し、漢口市街と飛行場在地機は爆撃で大きな被害を出した([[漢口大空襲]])。邀撃には第85戦隊の四式戦12機と第25戦隊の一式戦13機が出撃し、同日午後の空戦では「赤鼻のエース」若松少佐機を含む四式戦3機・一式戦2機を喪失するも戦果は[[対空砲|対空砲火]]と合わせP-51 4機・P-40 1機・B-29 1機を確実撃墜(空対空の戦果はこのうち3機とされる)。1945年1月3日・5日・6日そして14日にも漢口は連続空襲を受け同じく第85戦隊・第25戦隊がこれを邀撃、両戦隊計6名の戦死操縦者を出すも戦果は対空砲火と合わせP-51 8機・[[P-47 (航空機)|P-47]] 4機を確実撃墜(P-47は中国ではこれが初陣である)。17日、来襲したP-47との空戦で第85戦隊・第25戦隊は両戦隊各1名が戦死するも、P-47 2機を確実撃墜している<ref>梅本 (2010b), p.104</ref>。