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テアニン (会話 | 投稿記録)
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'''京 房'''(けい ぼう、[[紀元前77年]] - [[紀元前37年]])は、[[前漢]]の人。[[]]は君明。[[東郡]][[清豊県|頓丘県]]の人。元の姓は李であったが、自ら京氏に改姓した。[[易経]]の大家。
 
== 略歴 ==
易経[[郡|梁国]]の人である焦延寿より学んだ。焦延寿は「私の説を学んで身を滅ぼすのは、必ずや京房であろう」と評した。
 
京房の説は災異について詳しく、易の六十四[[卦]]を一年間に割り当て、日々に起こる事を知るというものであった。また京房は音楽を好んだ。
 
京房は[[初元]]4年([[紀元前45年]])に[[孝廉]]に推挙され郎となった。京房は[[永光 (漢)|永光]][[建昭]]年間の[[羌]]の反乱や[[日食]]などを予言する上書をするなど、しばしば予言を的中させたので、[[元帝 (漢)|元帝]]は喜んだ。元帝が京房に面会すると、京房は「いにしえは功績によって賢者を推挙したのでよく治まり、末世は褒貶によって人を選んでいるので業績が廃れ災異がもたらされるのです。百官に功績を試験させるようにすれば、災異もやむことでしょう」と進言した。元帝は詔を下して京房にその件をやらせ、京房は官僚の評定法を上奏した。
 
京房を大臣たちと議論させたところ、大臣たちはみなその評定法が煩瑣であり、上下を互いに監視させるものであると述べて認めなかった。[[刺史]]たちにもその評定法を評価させたが、刺史たちも反対した。ただ、[[御史大夫]][[鄭弘]]と[[光禄大夫]][[周堪]]だけは、最初は反対していたが後に賛成に回った。
 
当時は[[中書令]][[石顕]]が権力を握っており、石顕の友人の[[五鹿充宗]]は[[尚書令]]となっていた。五鹿充宗は京房と同じ易経を修めていたが互いの論を非難していた。また京房は元帝に対して[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]][[秦]]の[[二世皇帝]]を引き合いに出して石顕を批判した。
 
元帝は京房の評定法を試すため、評定法を熟知する弟子の名前を出させたが、京房を憎む石顕と五鹿充宗は京房を遠ざけるため、試しに京房を郡[[太守]]にするべきだと建言した。元帝はそこで京房を秩八百石で[[魏郡]]太守にし、そこで評定法を用いることを許した。京房は刺史に属しないこと、他郡の人間を部下に招くこと、秩千石以下の官を自分で評定すること、毎年上奏することを請い、許された。
 
大臣に反対されている中で朝廷から離れることとなった京房は憂い怖れた。[[淮陽郡 (河南省)|淮陽]]王[[劉欽]]の外戚張博は京房より易経を学び、京房に娘を嫁がせていたが、京房は自分の災異説や元帝との密談内容を記して張博を通して淮陽王に与え、淮陽王より進言させて自分の助けとなるようにした。しかしこのことを石顕に掴まれ、京房が朝廷を離れると告発され、京房も張博も獄に下された。
 
建昭2年([[紀元前37年]])、京房と張博は処刑され、家族は辺境へ配流された。
 
なお、前漢の易経の大家として、[[梁丘賀]]に易経を教えた太中大夫京房という人物がいるが、本項の魏郡太守京房とは別人である(『[[漢書]]』儒林伝)。
 
== 著作について ==
京房の著作として『京房易伝』が残っているが、これは『漢書』五行志にしばしば引用されている『京房易伝』とはまるで一致せず、『漢書』の引用の方が信頼できるものであるとされている(本田済著『中国古典選1    上』解説)。
 
== 参考文献 ==
*<span style="font-size:90%;">[[班固]]著『[[漢書]]』巻75京房伝、巻80劉歆伝</span>
 
== 関連項目 ==
* [[六十律]]
 
== 参考文献 ==
*<span style="font-size:90%;">[[班固]]著『[[漢書]]』巻75京房伝、巻80劉歆伝</span>
 
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