「河東の乱」の版間の差分

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[[今川義忠]]の死後に発生した家督争いは、義忠の遺児である龍王丸(後の[[今川氏親]])を後見していた室町幕府官僚出身の伯父・伊勢盛時([[北条早雲]])によって納められ、その功績で駿河国富士郡下方地域を与えられ、駿東郡南部にあった[[興国寺城]]に入った(異説あり)。その後、盛時は伊豆国を平定し、更に相模国・駿河国の国境地域を支配していた[[大森氏]]を破って[[小田原城]]を手に入れた。盛時は立場的には氏親の家臣であり氏親を「屋形様」と仰いでその軍事作戦に従事しているが、伊豆国及び大森領制圧は盛時独自の軍事行動であったと内外からは認識されていた。また、大森氏は駿河国駿東郡の北部を支配していたものの相模を支配していた[[扇谷上杉家]]と主従関係を結んでいたため、その地域には長く今川氏の影響力が及んでいなかった。このため、富士郡や駿東郡南部に関しては今川氏は盛時よりも上位権力者としての権限を行使できるが、伊豆国および駿東郡北部では盛時が排他的な支配権を確立して今川氏は上位権力にはなり得なかった<ref>池上(黒田編:2018年)、P350-353・360</ref>。
 
こうした二重構造は、盛時自身の意識は別として、伊勢氏を自らの被官とみなす今川氏と伊豆一国を支配する今川氏と対等の存在と意識する盛時の家中との間で認識のずれとなって現れる。永正16年(1519年)、伊豆・相模両国の支配を確立していた伊勢盛時が死亡して息子の[[北条氏綱|氏綱]]が継ぐと血縁関係に由来する両氏の主従関係が崩れることになる。その頃、今川氏親は甲斐の武田氏と抗争を続けており、永正17年(1520年)に甲斐に侵攻した。ところが、それまで甲斐遠征に従軍してきた伊勢氏は従軍を拒絶する姿勢を示した。また、大永5年(1525年)には北条氏綱(大永年間初頭に北条氏と改称)が武田氏と和睦をして直ちにその武田氏と開戦するという不可思議な行動に出ている。これは、今川氏の家臣としての武田氏との抗争からは離脱する一方で、伊豆・相模の支配者として武田氏とその支配を争っていた津久井城を確保するために戦端を開いたと理解できる。一方、今川氏親も、軍事行動への参加を拒否して自立を強める氏綱に対して父・盛時に与えた富士郡などの所領を安堵しなかったとみられている<ref>池上(黒田編:2018年)、P350-354・360</ref>{{Efn2|今川の客将として盛時に与えられた所領の行方については、盛時の伊豆進出時に氏親に所領を返上した説や盛時の姉で氏親の生母である[[北川殿]]の所領として盛時が代理として引き続き支配にあたった説もある<ref>黒田基樹「今川氏親の新研究」『シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻 今川氏親』(戎光祥出版、2019年4月) ISBN 978-4-86403-318-3 P38-39.</ref>が、いずれも盛時死去後に氏綱には安堵されなかったことになる。}}
 
== 第1次河東一乱 ==