「田尻鑑種」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m lk
50行目:
その後の田尻鑑種は鍋島直茂に忠誠を誓い、朝鮮役へ帯同中に当地で病没した。
 
一方、[[島津氏]]の史料である『[[本藩人物誌]]』では、上記の和談が成立し100名余を連れて隆信と会すべく進んでいる最中に、龍造寺方の伏兵により討ち取られたとする<ref name="honpan">『[[本藩人物誌]]』 ”田尻嘉兵衛統種”の項</ref>。また、その子である喜平次も殺されかけたが、隆信の母である[[慶ぎん尼|慶誾尼]]に助命され[[僧]]になり、後に[[還俗]]し[[大友氏]]に仕えて[[田尻統種|統種]]と名乗った後に[[出奔]]、[[浪人]]して[[島津義弘]]に仕えたと記述される<ref name="honpan"/>。
ただし鑑種が朝鮮役で活躍した複数の資料があるため、この史料にある話の信憑性は低い。