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| 学名 = ''Vibrio cholerae''<small>{{AU|Pacini 1854}}</small>
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'''コレラ菌'''(コレラきん、学名 ''Vibrio cholerae''。[[中国語]]:霍亂弧菌)は、ビブリオ属に属する[[グラム染色|グラム陰性]]の[[コンマ]]型をした桿菌の一種<ref name="toda33_563">水之江義充、吉田眞一「コレラ菌とビブリオ科の細菌」:『戸田新細菌学』(吉田眞一、柳雄介編)改訂33版、南山堂、2007年 pp.563-577 ISBN 978-4-525-16013-5</ref><ref name="bergey">J.J. Farmer III and J. Michael Janda "Vibrionaceae" in ''Bergey's manual of systematic bacteriology'' (George M. Garrity ''et al.'' eds.) 2nd ed. vol 2 part B pp.491-546 (2005) ISBN 978-0387-24144-9</ref><ref name="kansen">竹田美文「コレラ」:『感染症の事典』(国立感染症研究所学友会編)第1版、朝倉書店、2004年、pp.97-98 ISBN 4-254-30073-5</ref><ref name="idsc">IDWR 感染症の話「コレラ」[http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k00-g15/k00_01/k00_01.html] 2009.10.19確認</ref><ref name="illust2_132">山口惠三、松本哲哉監訳『イラストレイテッド微生物学』第2版、丸善、2008年 pp.132-134 ISBN 978-4-621-07916-4</ref>。[[好アルカリ菌|好アルカリ性]]で比較的[[好塩菌|好塩性]]の[[細菌]]である。[[1854年]]、[[イタリア人]]医師フィリッポ・パチーニ([[:en:Filippo Pacini|Filippo Pacini]]、[[1812年]]-[[1883年]])によって発見された後、[[1884年]]に[[ロベルト・コッホ]]([[:en:Robert Koch|Robert Koch]])がこれとは独立に[[コレラ]]の病原体として発見した。

しばしば誤解されるが、コレラ菌のすべてがコレラの原因ではなく、200種類以上の[[血清型]]に分類された中の「'''コレラ毒素'''を産生するO1型もしくはO139型のコレラ菌」が、ヒトに感染してコレラの原因になる。

O1型は古典型とエルトール型に分類される。また、これ以外のコレラ菌もヒトに感染して食中毒の原因になる。いずれも主に[[川|河川]]や[[海]]などの水中に存在する生きた菌が、その水や付着した魚介類を介してヒトに経口的に感染し、その[[腸]]内で増殖して、[[糞|糞便]]とともに再び河川等に排出されるという[[生活環]]で生息している。
 
==歴史<ref name="kansen"/><ref name="takeda2008">竹田美文『感染症半世紀』株式会社アイカム、2008年 ISBN 978-4-900960-15-2</ref><ref name="toda33_563"/>==
[[1817年]]、コレラは[[インド]]の[[ガンジス川]]下流の[[ベンガル地方]]で大規模な流行を起こした。このときの流行は[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]などにまで広がり、最初の世界規模での大流行(第1次コレラ[[パンデミック]])になったが、このときは[[ヨーロッパ]]に波及する前に[[1823年]]に終息した。しかし[[1829年]]に再びインドから発生した第2次パンデミックではヨーロッパに伝播して多くの感染者および死者を出し、「[[ペスト]]の再来」として恐れられた。当時はまだ医学が十分に発展しておらず、コレラの発生原因が何であるかについてさまざまな説が流れたものの、いずれも推論の域を出なかった。
 
[[1852年]]に始まった第3次パンデミックのとき、[[イギリス]]の開業医ジョン・スノー([[:en:John Snow (physician)|John Snow]])は[[疫学]]調査を行い、コレラの病原因子が飲料水に関連した何かであることを明らかにした。一方、[[イタリア]]の医師フィリッポ・パチーニは、コレラ患者の糞便に大量の[[細菌]]が存在することを見出し、これがコレラの病原菌だと考えて''Vibrio cholerae''と名付け、[[1854年]]にイタリアの学術誌に発表した。しかし、この発表はヨーロッパの学者の目に止まらず、また当時はまだ細菌が病原体であるという考えは証明されていなかったため、この発表は以後30年にわたって日の目を見ることはなかった。