「ラーコーツィ・ジェルジ2世」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[ファイル:Jerzy| II人名 = Rakoczy.jpg|thumb|200px|ラーコーツィ・ジェルジ2世]]
| 各国語表記 = II. Rákóczi György
| 家名・爵位 = [[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]]
| 画像 = Jerzy II Rakoczy.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1648年]] - [[1657年]]、[[1658年]]<br>[[1659年]] - [[1660年]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1621|1|30|no}}
| 生地 = [[シャーロシュパタク]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1621|1|30|1660|7|7}}
| 没地 = [[オラデア|ナジヴァーラド]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[バートリ・ジョーフィア]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[ラーコーツィ・フェレンツ1世]]
| 家名 = [[ラーコーツィ家]]
| 父親 = トランシルヴァニア公[[ラーコーツィ・ジェルジ1世]]
| 母親 = [[ロラーントフィ・ジュジャナ]]
| 役職 =
| 宗教 = [[キリスト教]][[カルヴァン主義|カルヴァン派]]
| サイン =
}}
'''ラーコーツィ・ジェルジ2世'''(II. Rákóczi György, [[1621年]][[1月30日]] - [[1660年]][[7月7日]])は、[[ハンガリー人]]の[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]](在位:[[1648年]] - [[1657年]]、[[1658年]]、[[1659年]] - 1660年)。トランシルヴァニア公[[ラーコーツィ・ジェルジ1世]]と、その妻[[ロラーントフィ・ジュジャナ]]の息子。
 
== 生涯 ==
[[ハンガリー]]の[[シャーロシュパタク]]に生れ、父の存命中の[[1642年]][[2月19日]]にトランシルヴァニア公に選出され、[[1643年]][[2月3日]]に[[バートリ家]]出身の[[バートリ・ジョーフィア]]([[:hu:Báthory Zsófia]])と結婚した。ジョーフィアは結婚に際し、姑のジュジャンナによって無理やり[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]から婚家が信仰する[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]に改宗させられた。ジョーフィアは[[1645年]]、後継ぎ息子の[[ラーコーツィ・フェレンツ1世]]をもうけた。
 
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直後にオスマン帝国大宰相の命令で再び廃位された後、1659年に何事もなかったように3度目の復帰を果たしたが、オスマン帝国がトランシルヴァニアに攻め入り、1660年5月に起きた[[ギラウ (クルージュ県)|ジャル]]の戦いで負傷したジェルジ2世は7月7日に[[オラデア|ナジヴァーラド]]で死去した。オスマン帝国は[[バルチャイ・アーコシュ]]をトランシルヴァニア公に即位させたが、反対派は[[ケメーニ・ヤーノシュ (トランシルヴァニア公)|ケメーニ・ヤーノシュ]]を擁立して対抗、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に援助を求めたため公位継承の混乱が起こった。
 
{{1911|title=Rákóczy}}
 
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