「廃仏毀釈」の版間の差分

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{{要出典範囲|date=2019年9月24日|例えば[[千葉県]]の[[鋸山 (千葉県)|鋸山]]には[[五百羅漢]]像があるが、全ての仏像が破壊された}}。{{要出典範囲|date=2019年9月24日|現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている}}。{{要出典範囲|date=2019年9月24日|また、[[華族]]の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた}}。
 
[[伊勢国]]([[三重県]])では、[[伊勢神宮]]のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった[[慶光院]]など100ヶ所以上が廃寺となった。特に、神宮がある[[宇治山田]](現:[[伊勢市]])は、1868(明治元)年11月から翌1869年(明治2)年3月までのわずか4ヶ月間で、196の寺が廃寺となった。これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになる<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』ppp.156-157 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
 
{{要出典範囲|date=2019年9月24日|明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の[[国学者]]主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた}}。現在は[[国宝]]に指定されている[[興福寺]]の[[五重塔]]は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円<ref>大屋徳城「奈良における神仏分離」『明治維新神仏分離資料』</ref>で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる[[内山永久寺]]に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。[[安徳天皇]]陵と[[平家]]を祀る塚を境内に持ち、「[[耳なし芳一]]」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、[[赤間神宮]]となり現在に至る。
 
{{要出典範囲|date=2019年9月24日|廃仏毀釈がもっとも徹底された[[薩摩藩]]では、藩内寺院1616寺すべて廃され消え僧侶2964人すべてが[[還俗]]させられ僧侶は2966人に。廃仏希釈ぼっ。そのうちの3分の1る目的[[軍属]]となったため、寺院の撞鐘、仏像、什器などから没収さ得らた財産や人員が強制的る金属で、天保通宝を密か兵科に回され偽造し軍備の拡充を図っと言われることもある}}<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.54-56 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
 
{{要出典範囲|date=2019年9月24日|[[美濃国]]([[岐阜県]])の[[苗木藩]]([[東白川村]])では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主17菩提(雲林すべてが廃となり、仏教の要素を含むのはことごとくせらた。東白川村では、現在でも仏教徒はほとんど存在せず、儀を神道形は神葬祭行う家庭実施されるの殆ど通例である}}<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.131-132 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
 
一方、[[尾張国]]([[愛知県]])では[[津島神社]]の神宮寺であった[[宝寿院 (津島市)|宝寿院]]が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している<ref>{{Citeweb|url=http://houjyuinn.net/annai/history.html |title=宝寿院の歴史 |publisher=宝寿院 |date=2008-01-10 |accessdate=2012-12-01}}</ref>。
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* [[白雲寺]](京都[[愛宕神社]]神宮寺)
* [[大御堂 (つくば市)|中禅寺]]([[筑波山神社]]関連寺院)
* [[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]](薩摩藩[[島津氏]]の菩提寺)<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.57-58 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
* [[永代寺]]([[富岡八幡宮]]別当寺)
* 菩提山神宮寺([[伊勢神宮]]内宮関連寺院)<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.150-161 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
* 鵜戸山仁王護国寺([[鵜戸神宮]]別当寺)<ref>鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.93-97 文藝春秋 2019 第4刷</ref>
 
=== 廃仏毀釈により破却された神塔 ===