「夏侯嬰」の版間の差分

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ある時、夏侯嬰は[[魯郡|魯]]の[[侠客|大侠客]]の[[朱家]]から依頼されて面会し、朱家に匿われた元・楚の将軍の[[季布]]を救助すべく説得を受けた。夏侯嬰は朱家の議論とその器量に感服し、機を見て高祖に上奏した。季布は赦免され、[[近衛兵|郎中]]に任命されて高祖に仕え、後に河東太守に累進した<ref>『[[史記]]』游侠列伝</ref>。
 
晩年は、呂氏が滅びると[[少帝弘]]らを自ら宮中より追い出し、これを誅殺した。まもなく[[陳平]]・[[周勃]]・[[灌嬰]]らと共に高祖第4子で20余歳の代王劉恒(太宗・[[文帝 (漢)|文帝]])を擁立した。
 
[[紀元前172年|前172年]]に亡くなり、'''文侯'''と[[諡]]された。
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なお、夏侯竈の墓は[[1977年]]に[[安徽省]][[阜陽市]]で発見された。墓は早いうちから盗掘され、さらには墓道が[[第二次世界大戦]]の際に[[塹壕]]の被害に遭っていたものの、妻の墓と隣り合わせになっていることや、出土品に「汝陰侯」と彫られていることからそれと判明した。
 
[[後漢]]末期、[[魏 (三国)|魏]]の礎を創った[[曹操]]と共に挙兵した[[夏侯惇]]・[[夏侯淵]]らは夏侯嬰の末裔という<ref>『三国志』夏侯惇伝</ref>。また曹操の父[[曹嵩]]はもともと夏侯惇の叔父にたる夏侯氏で[[曹参]]末裔の宦官[[曹騰]]の養子になり曹の姓を名乗ることになったとの説がある<ref>『三国志』魏書武帝紀裴松之注『曹瞞伝』</ref>。
 
== 夏侯嬰を題材とした作品 ==
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==