「本多流生弓会」の版間の差分

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=== 本多利實 ===
'''本多 利實'''(ほんだとしざね、[[1836年]] - [[1917年]])は、本多流流祖。旗本・竹林派家元本多利重長男、幼名橋之助、[[号 (称号)|号]]生弓斎。利實翁とも呼ばれる。6歳の時父に弓を学び始める。25歳、利重より日置流尾州竹林派皆伝印可を受ける。[[1867年]]32歳で家督を相続する。[[1869年]][[大学校 (1869年)|医学校]](現[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東大医学部]])勤務。[[1874年]][[文部省]][[医務局]]分課[[種痘所]]勤務。[[1889年]][[明治維新]]後の弓術の荒廃を嘆いて『弓術保存教授及演説主意』を著し、弓術継続会を設立する。同年[[西巣鴨町|巣鴨村]]村長。[[1892年]][[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]弓術教授。[[1893年]][[八幡神社 (東京都港区虎ノ門)|西久保八幡神社]]祠宮。[[1901年]][[霞会館|華族会館]]弓術教授。[[1902年]][[東京大学|東京帝国大学]]弓術部師範。[[1905年]][[学習院]]弓術師範。その他いくつもの学校の師範を務める。この頃竹林派の種々の伝書に註解を加えて正面の弓構え・打起しについても解説し、[[1908年]]『日置流竹林派弓術書』を出版公表する。1917年東京帝国大学に家元継承についての覚書などを預託する。同年[[東京都電車|東京市電]]の事故により死亡する。墓所は[[牛込区]][[戸山町]](現在の[[新宿区]][[戸山 (新宿区)|戸山]])の[[清源寺(新宿区)|清源寺]]。没後宗家としての権限は門弟である東京帝国大学弓術部に預託され、生弓会が組織される。
 
=== 本多利時 ===