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建安20年([[215年]])8月、張遼は楽進・李典と共に[[合肥]]に駐屯していたが、孫権は10万と号した大軍を率て侵攻してきた([[合肥の戦い]])<ref>『三国志集解』10万人未満であるが、実際に孫権が10万の軍隊を用意したわけではなくて10万だと言い張っているという意味です。その部分は輸送部隊や工作隊です</ref>。曹操は[[張魯]]を攻撃するため[[漢中郡|漢中]]に遠征していたが、護軍の[[薛悌]]を遣わし三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城で護軍を守れ」という指令を与えていた。張遼はこれに基づいて作戦を立て、楽進が薛悌と共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。楽進・李典・張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。
 
孫権軍の先行部隊が到着すると、孫権の大軍が集合していない時だったので、張遼は自ら先鋒を務め敵陣へ突撃、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権で迫ったので、孫権は戟を持って戦いつつ退走した。張遼は孫権の軍勢が丘に退げたのを見ると、孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が寡兵であることを見てとり、残りの先行部隊をもって囲んだが、張遼の兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と悲鳴をあげた。張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先行部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。孫権の後続部隊が続々と到着し、潘璋・賀斉が張遼を食い止め、前線が維持することに成功返し、た。張遼は合肥に引き返してきた。士気が回復した孫権軍は十数日間ほど合肥城を包囲したが、しかし疫病で撤退した。
 
この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。孫権らの軍勢が寡兵であることを見た張遼は七千余の騎兵を引き連れ、城から出て追撃した。退路には川が流れており、逍遥津に津橋という橋が架かっていた。この時、孫権の大軍が既に前線から撤退し、逍遥津の北には孫権と残りの近衛歩兵千余人と、[[呂蒙]]・[[蒋欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残るのみであった。孫権軍は張遼に追撃され、呂蒙・凌統が奮闘で殿軍を務め、これに応戦した。孫権は騎射で急襲に応じ、命からがら橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下300人を全滅させ、凌統は張遼軍を数十人殺し、全身に傷を負いながらも、孫権が退却したことを知ると泳いで退げた。