「ミニアチュール」の版間の差分

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→‎3-6世紀 イタリア・東ローマ: 誤字訂正 画様に → 描くように
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→‎3-6世紀 イタリア・東ローマ: 1文の中の「描かれるように」の重複をまとめた。 ビザンティン美術は様式化していった。肌の色を浅黒く塗り、ズボンを細長く引き伸ばし、足運びを固定して描かれるようになった。
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[[Image:ViennaDioscoridesFolio3v7Physicians.jpg|thumb|200px|[[ヴィエナ・ディオスコリデス]](6世紀前半)より、七人の医者のミニアチュール]]
 
[[東ローマ]]の画派では、自然のままの姿から離れて技術的な定型を使うのが当たり前になっていたが、初期の画派では古典の情趣が残っている例がある。[[コットン創世記]]([[:en:Cotton Genesis|Cotton Genesis]])の現存部分などがその好例で、ヴィエナ・ディオスコリデス([[:en:Vienna Dioscurides|Vienna Dioscurides]])のミニアチュールも証拠となっている。時代が下った東ローマの写本でも、前時代のものから複写されたものはモデルの複製によって写実的になっている。だが東ローマの時代のミニアチュールを古典作品と比較すれば、屋外から[[修道院]]にこもってしまったような印象を受ける。教会組織の制約のもと、[[ビザンティン美術]]は型にはまった慣習的なものになっ様式化していったのである。肌の色を浅黒く塗るようになり、ズボンを細長くばして書くようになり、足運びを固定して描かれるようになった。褐色・くすんだ青とその中間色が好まれた。後に[[イタリア]]のミニアチュールの特色となる肌色の扱い方が最初に現れるのはこの時代である。すなわちオリーブ・緑その他の暗い色の上に肌色を塗りつける手法である。背景もまたきわめて慣習的になり、写実的な自然の姿は見られなくなり、中世のミニアチュールに大きな影響を与えた。
 
ビザンティン美術の中でミニアチュールの美的価値は大きかったが、華々しい色彩と豊富な[[金]]の使用を特徴とする[[オリエント]]の壮麗な価値観も同時に現れた。このオリエント式のまばゆい金色の背景はまずミニアチュールに取り入れられ、その後西方の美術学校の制作物にも取り入れられるようになった。
 
中世[[イタリア]]は、ビザンティン美術の影響を大きく受けている。[[ラヴェンナ]]や[[ヴェネツィア]]など、イタリアの教会における初期のモザイク画は避けがたくビザンティン美術の影響を受けた好例である。とはいっても研究者にとって比較対象となる中世初期の作品はわずかで、[[12世紀]]の作品になってやっと、ビザンティン美術の伝統的な影響を受け継いだフレスコ画やミニアチュールが見つかり、数世紀をわたっての連関が保たれていると分かるのである。
 
==8-12世紀 北西ヨーロッパ==