「内藤卯三郎」の版間の差分

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[[1906年]](明治39年)10月、[[中郡]]尋常高等堀小学校の準[[訓導]]を拝命。[[1908年]](明治41年)5月、足柄上郡山田小学校の準訓導を拝命。
 
[[1909年]](明治42年)3月、退職。二人の兄が[[日露戦争]]前後、7、8年間軍隊にかり出されていたことから、「流石に『名誉・名誉』とおだてられる昂奮から覚めた」<ref name="mikawagendaishi-25-32">『[[#三河現代史|三河現代史]]』 25-32頁。</ref>親の意向により、すぐ上の兄とともに同年4月に[[神奈川県師範学校]]に入学。体のよい[[兵役逃れ|徴兵忌避]]だったという。在学中の校長は[[漢学者]]の[[内堀維文]]。「その偉大な人物と博学とには、いかなる腕白連中も歯が立たなかった」「先生が亡くならるる迄もらう手紙には必ず『何々然るべく候』と、いつも教えられていた」と内藤は述べている<ref name="mikawagendaishi-25-32" />。[[1913年]](大正2年)3月、同校を卒業<ref name="omoide21-22" />。
 
[[1917年]](大正6年)3月、[[東京高等師範学校]]本科数学物理化学課程を卒業。[[1918年]](大正7年)3月に研究科を卒業後、同校の教師となり、[[物理学]]を専門に後進の指導に当たった。30歳のとき、当時『[[アララギ]]』で実力を認められていた女性と結婚。結婚の条件として「短歌を断然やめる」ことを約束をさせたが、4、5年後、同誌の[[島木赤彦]]に説かれ、その約束は反故となった<ref name="mikawagendaishi-25-32" />。東京高等師範での教え子に詩人の[[八木重吉]]がおり、重吉が恋愛結婚を親族に反対されていたときには相談を受けて説得にあたり、承諾を取り付けた<ref name="sawamura">[[澤村修治]]『八木重吉のことば こころよ、では行っておいで』[[理論社]]、2013年、pp.159 - 161、163</ref>。1922年1月の重吉と妻の婚約式に出席し、同年7月に[[御影町]](現・[[神戸市]][[東灘区]])に住んでいた重吉の元に妻が赴く際には付き添って、重吉の自宅で開かれた簡素な結婚式に[[仲人]]としてただ一人立ち会っている<ref name="sawamura"/><ref>吉野登美子『琴はしずかに 八木重吉の妻として』彌生書房、1976年、pp.29、59 - 61</ref>。その後も後述の留学直前には病床の重吉を見舞い<ref>澤村修治『八木重吉のことば こころよ、では行っておいで』、p.183</ref>、重吉没後の追悼文では「邪念を見いだせない人間だった」と記している<ref name="sawamura"/>。
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