「ミハイル・シェープキン」の版間の差分

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[[1810年]]、シェープキンはP・V・メシチェルスキイ公爵と知り合う(かつて中将、パーヴェル一世の三等宮内官 アマチュア劇に好んで参加)。そしてそこで、メシチェルスキイのA・P・スマローコフ「偽りの持参金」サリダル役を見た。そしてその役の生活に生き、実際の人間的感情に近づけた演技に衝撃を受ける。そしてサリダル役をメシチェルスキイのように練習したが、そこにはメシチェルスキイをまねているという不自然さがあった。ある時[[モリエール]]「亭主学校」スナガレル役の稽古中、疲れていたため力を抜いて演技をしたところ自然な演技が出来た。これが彼の演技における[[リアリズム]]の源流となった。
 
1810年、22歳のシェープキンは孤児エレーナ=ドミトリエヴナ=ドミトリエワと出会い、[[1812年]]に結婚する。(農奴と結婚すれば妻も農奴)また、この頃収入は団員トップの350ルーブルルであった。[[1816年]]、建物が改修で閉鎖された。他に良い建物がなく劇団は解散する。兄妹の一人であるP・E・バールソフから、[[1816年]]に劇場を建てたイワン・フョードロヴィチ・シテインから誘いがあり一緒に行こうと言われハリコフへ行くことに。ハリコフで活動した後、トゥーラ劇場で活動した。定期市公演にV・I・ゴロヴィンが来ていた。彼は後のモスクワ帝室劇場支配人であり、フョードル・フョードロヴィチ・ココーシキンから良い役者を探す依頼を受けて来ていた。そして才能あるシェープキンはモスクワ帝室劇場へ勧誘され8日間モスクワに滞在した
 
[[1824年]]、豪商ワルギン邸を改造し帝室劇場はここに移る=[[マールイ劇場]] (小劇場)まもなく、ボリジョイ帝室ペトローフスキイ劇場も移ってくる。(大劇場)(1825年[[ボリショイ劇場|ボリジョイ劇場]]と命名)
 
しかし、帝室劇場のココーシキンなど多くは紋切り型の演技の支持者であった。シェープキンはココーシキンなど指導部のことを理解してるふりをして、舞台では批判覚悟で自己流でやった。これは上層部などから批判されたが、上手いため認めざるを得ない状態であった。
 
シェープキンは演技論など書いてないものの、[[アンサンブル]]の重要性を説くことや演劇学校・モスクワ大学のアマチュア劇団・地方公演時の若手発掘など指導を行った。
 
また、後にスタニスラフスキーに影響を与えることになるグリケリア・ニコラーエヴナ・フェドートワは16歳の時
 
「何で君に拍手したかわかるかい?教えてやろう 君が美しく初々しいからだ もし老人顔の私が今日の君ていどで演じたらどうだろう 私はどうなったと思う?」
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「箒でステージから掃き出されたさ、それを覚えておきなさい さあ、今はステージに出て賞賛の声を浴びてきなさい あとでいろいろ話し合おう 神様は君に才能を与えてくれたが君自身はまだ何もできていない 今日の成功など忘れなさい 観客は娘っ子の演技を楽しんでいるのであって、先に進まなければすぐ飽きられてしまう。神の恵みは君に大きな責務を課しているんだ。それを心に刻み一生務めなさい」<ref>{{Cite book|title=評伝・シェープキン : ロシア・リアリズム演劇の源流|url=http://worldcat.org/oclc/872165064|publisher=Jiritsushobo|date=2014.1|isbn=9784880593777|oclc=872165064|last=森, 光以}}</ref>
 
など教えを受けた。
 
 
シェープキンの二人の娘フェークラ、アレクサンドラはプロの俳優になったがそれぞれ10歳、25歳で死亡した。