「メクレンブルク=シュトレーリッツ」の版間の差分

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1918年2月23日にアドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、大公家の家長はカール・ミヒャエルとなったが、カール・ミヒャエルは敵国であるロシアにいたため即位できなかった。そこで彼はシュトレーリッツの摂政を務めていたメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]に対し、自身の大公位継承権を放棄したい旨を書いた手紙を送ったが、この手紙はドイツが共和制に移行した1919年になってようやく届いた。このためシュトレーリッツ大公国が1918年11月に消滅するまでの間、本来の大公となるべき人物が大公位に就かず、またその即位の意思も明確にならない宙吊りの状態が続いた。
 
===メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州 (1918-1934年)===
[[File:Wappen Freistaat Mecklenburg-Strelitz.png|thumb|right|240px|メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州章 (1921年)]]
1918年に[[ドイツ革命]]によって君主制が廃止されると、メクレンブルク=シュトレーリッツは[[自由州 (ドイツ)|自由州]]として[[ヴァイマル共和政]]に基づく議会制民主主義国家となった。