「房川渡中田関所」の版間の差分

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m 新編武蔵風土記稿栗橋宿
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房川渡には、[[日光社参]]の際、臨時に船橋が架けられており、いくつかの絵図が残されている。
『日光社参房川渡船橋之絵図』には、安永5年(1776年)、第10代将軍徳川家治が日光社参の際の船橋が描かれている。<ref group="✝">『日光社参房川渡船橋之絵図』は、平成13年2月22日、[[埼玉県]][[加須市]]有形文化財(歴史資料)に指定された。({{Cite web|url=http://www.city.kazo.lg.jp/cont/s752000/d039100/hpg000008219.html|title=大利根地域指定文化財一覧|accessdate=2017年1月27日|date=2016年06月09日|work=加須市|publisher=加須市役所}})</ref>船橋は、[[高瀬舟]]53艘並べ、舟は[[碇]]と石詰めの俵を結んで沈め、[[丸太]]と舟を結び付け[[梁]]と[[橋桁]]を並べ、[[粗朶]]を敷き、土砂と砂をのせた。また、舟の固定のため、川の両岸に[[杭]]をさし杭と[[艫網]]を繋いでいた<ref>{{Cite web|url=http://www.city.kazo.lg.jp/cont/s752000/map/hpg000008262.html|title=日光社参房川渡船橋之絵図|accessdate=2017年1月27日|date=2013年04月16日|work=加須市|publisher=加須市役所}}</ref>。
『日光山御社参之節房川渡シ御船橋絵図』には、天保13年(1842年) 将軍の日光社参の際の船橋が描かれていた<ref group="✝">天保13年(1842年) 将軍の日光社参の際に架橋された船橋の瓦版(絵図)が[[埼玉県立図書館]]に所蔵されている。({{Cite web|url=https://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/d_conts/kicho/syosai/035.html|title=日光山御社参之節房川渡シ御船橋絵図|accessdate=2017年1月27日|date=2016年4月21日|work=埼玉県立図書館|publisher=埼玉県}})</ref>。
 
== 房川渡中田関所における改め ==
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'''「入鉄炮出女」'''
 
本関所の武器類の搬送には、「入り鉄砲」には老中証文を定法とされ、房川渡中田関所最古の鉄砲手形([[寛文]]3年([[1663年]]))が『元禄十年、享保六年迄御関所御諸記』<ref>栗橋町、『足立正路家文書』に拠る。</ref>に記されている<ref>金井a(2000)、60-62頁。</ref>。房川渡中田関所における武器類の搬送は、天保8年([[1837年]])の『文化三寅年同四年六月迄、御関所御用書抜』<ref>栗橋町、『足立正路家文書』に拠る。</ref>から鉄砲勘過規定の指示が残されている<ref>金井a(2000)、69-72頁。</ref>。房川渡中田関所での鉄砲搬送方法は、[[老中]]裏印証文、[[留守居]]衆断状、[[勘定奉行]]証文、老中の宿継証文、そして持ち主・家来証文による5つの方法があった<ref>金井a(2000)、81頁。</ref>。
 
本関所の女子の通過には、[[元和 (日本)|元和]]2年(1616年)幕閣連署による『船渡定』にて『惣別江戸え相越もの不可改事』と規定されたことから、「江戸へ入る女性の場合は女手形を必要とせず、口上で断って通ることができた」<ref>金井b(2000)、102頁。</ref>という。
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[[1869年]](明治2年)、[[明治維新]]の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続した。[[1924年]](大正13年)の[[利根川橋 (国道4号)|利根川橋]]の完成によって、房川渡はその役割を終えた。
 
[[1924年]](大正13年)、旧堤上に「栗橋関所址」の記念碑が旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により建碑された。
 
[[1961年]](昭和36年)9月1日には「栗橋関跡」として、県の旧跡に指定された。
 
[[1961年]](昭和36年)9)9月1日には「栗橋関跡」として、県の旧跡に指定された。
 
== 交通 ==