「石那坂の戦い」の版間の差分

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文治五年(1189年)八月大八日条には、[[阿津賀志山の戦い]]、石那坂の戦いが記述されている。また、鎌倉の様子が記述されている。
 
{{Quotation|文治五年八月大八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。
又泰衡郎從信夫佐藤庄司。又号湯庄司。是繼信忠信等父也。相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潜相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。
 
 
===飯坂説===
[[佐藤基治]]の本拠地である。[[飯坂町|飯坂]]の地名由来は1300年頃<ref>日本歴史地名大系第七巻「福島県の地名」P663福島市上飯坂村</ref>であり、石那坂の戦い(1189(1189)の時点で、飯坂の古名は不明である。佐藤庄司は阿武隈川の支流である小川・赤川・[[摺上川]]を堀に見立て、[[大鳥城]]に陣を構えていたとする説である<ref>石那坂 [[石原洋三郎]] 平成29年8月第一印刷</ref>。[[吾妻鏡]]では、[[源頼朝]]軍は7月29日[[白河関]]を越えて、8月7日に国見駅に到着した。8月8日[[阿津賀志山の戦い]]が行われているが、同日に石那坂の戦いが行われている。大鳥城はかつて、伊達郡に隣接していた。
 
===その他の説===
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