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{{by|1976年}}の[[プロ野球ドラフト会議]]で、[[中日ドラゴンズ]]から1位指名される。滋賀県内高校生として初のドラフト1位指名となり、中日に入団。プロ入り当時の投手コーチであった[[権藤博]]から、「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。選手の個性を重んじ投球フォームに口を出さないことで知られた権藤が、唯一人都に対してはフォーム矯正を施した。
 
速球と[[スライダー (球種)|スライダー]]を武器に頭角を現し、2年目の{{by|1978年}}には、第15回[[ジュニアオールスターゲーム]]に出場し、3年目の{{by|1979年}}に一軍デビュー。5年目の{{by|1981年}}には、[[先発ローテーション]]に定着し、翌{{by|1982年}}には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場。同年は16勝5敗、勝率.762で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。同年の[[ロッテ・オリ埼玉西武ライオンズ|ロッテ西武]]との[[19741982年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では4試合に登板。第2戦で先発するが先頭打者の[[石毛宏典]]の打球を足に当てて降板。翌々日の第3戦も先発するが、やはり本調子でなく1回に2点を失い2回途中で交代を余儀なくされた。{{by|1984年}}には、開幕7連勝を含む13勝をマークしたが、{{by|1985年}}以降は、腰痛や肩の怪我に苦しみ、5年間で2勝に終わった。{{by|1989年}}に現役を引退。
 
引退後は球団に残り、[[打撃投手]]、[[スコアラー]]を経て、{{by|2002年}}途中から{{by|2003年}}には二軍投手コーチを務める。