「福島正成」の版間の差分

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=== 架空説 ===
そもそも、今川氏被官に官途名に上総介・兵庫頭の官途名の人物がおらず、福島氏の系譜に登場する通字は春・助・範である。「正成」の名前は後世の編纂物(『山縣系図』・『関八州古戦録』・『高天神記』など)のみであり、実在の人物として認められるのは今川氏親の時代に高天神城の城将を務め、『大福寺文書』(大永元年推定、某年11月28日付文書)より飯田河原の戦いで戦死したと推定できる福島助春(左衛門尉)である。更に飯田河原の戦いから花倉の乱までの15年間福島氏の一族は今川氏の重臣としての地位を保ち続けており、花倉の乱では玄広恵深の母が福島氏(助春もしくは同族)の娘であったために玄広恵深に加担した。助春=正成だとするとその息子が孤児となって北条氏綱を頼る事態は想定できない、とする<ref>見崎鬨雄「今川氏の甲斐侵攻」(初出:今川氏研究会 編『駿河の今川氏』第7集(1983年)/所収:黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻 今川氏親』(戎光祥出版、2019年4月) ISBN 978-4-86403-318-3)2019年、P101-102.</ref><ref>平山優『武田信虎 <small>覆される「悪逆無道」説</small>』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 P159-160.</ref>。従って、北条綱成の出自については今川氏被官の福島氏以外から求める(北条氏家臣説など)を求めるしかない、ということになる。
 
== 子孫・一族・関係者 ==