「シモン・ボリバル」の版間の差分

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植民地時代にはアメリカ大陸でも有数の大富豪だったボリバル家も、シモンが革命の理念とハイチ人との約束のために自らの奴隷を解放し、農園や鉱山を売却し、私財のほぼ全てを投じて解放戦争を続けたために死の直前には財産はほとんど何も残っておらず、シモンの死によってボリバル家は完全に没落した。その一方でベネスエラのパエスやエクアドルの{{仮リンク|フアン・ホセ・フローレス|en|Juan José Flores|label=フローレス}}、ペルーの{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・マール|es|José de La Mar|en|José de la Mar|label=デ・ラ・マール}}のように、かつての部下だった将軍達の多くはボリバルを裏切り、解放戦争によって得た権力で私財を蓄え、各国の寡頭支配層を形成した。後世への戒めか、死の間際に「革命の種子を播こうとする者は、大海を耕す破目になる」という言葉を残している。
 
とくにヌエバ・グラナダにおいては、ボリバル派(中央集権派・保守派)とサンタンデル派(地方分権派・自由派)の対立は、以後100年以上にわたる同国の国内対立の淵源をなすものだった。ボリバルの失脚に伴ってボリバル派の勢いは衰え、[[1832年]]にサンタンデルが亡命先から帰国して大統領となるとその趨勢はさらに顕著なものとなった。サンタンデルは法治主義を奉じ自由主義的な統治を行ったが、一方でボリバル派の人物を政権から徹底的に排除し、これが現代までコロンビアで続く猟官制の原因となった<ref>寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』p57 アジア経済研究所、2011年。ISBN 4258051136</ref>。やがて自由派内において穏健派と急進派の路線対立が生じるようになる。穏健派は思想を保守化させたうえでボリバル派と政治同盟を組むようになり、やがて両派は合同して保守党を結成。自由派の後身である自由党と激しい政治闘争を繰り返すようになる。この闘争は[[1990年代]]にいたるまでじつに160年以上にもわたって続き、幾度もの激しい内戦とコロンビアの政治的な不安定さを招く主因となった。
 
== 人物像 ==