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== 分類 ==
乾麺については小麦粉に[[食塩]]と[[水]]を混ぜてよく練り、[[綿実油]]などの食用油、もしくは小麦粉や[[デンプン|澱粉]]を塗ってから、よりをかけながら引き延ばして乾燥、熟成させる製法で『[[#手延べ干しめんの日本農林規格|手延べ干しめんの日本農林規格]]』を満たしたものについては「'''手延べ素麺'''(てのべそうめん)」に分類される。近年では手延べ素麺も大幅に機械化が進んでいる<ref>[http://www.citydo.com/soumen/the03.html 手延べそうめんの製法] [[サイネックス|CityDO!]] そうめん特集</ref><ref>[http://www.agri-ch.net/page/5518.html 工場見学「手延べそうめん」]{{リンク切れ|date=2019-12-1}} あぐりちゃんねる([[食品産業センター]])</ref>。小麦粉に[[食塩]]と水を混ぜてよく練った生地を帯状に細く切って乾燥させる製法のもので機械にて製造しているものは「'''機械素麺'''(きかいそうめん)」に分類される。
 
[[日本農林規格]](JAS規格)の『[[#乾めん類品質表示基準|乾めん類品質表示基準]]』では、機械麺の場合、素麺の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満は[[ひやむぎ]](冷麦)、1.7mm以上は[[うどん]](饂飩)と分類される。手延べ麺の場合は、素麺もひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが、太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされる。
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* [[中華人民共和国|中国]]に機械素麺・手延素麺が現存する。[[福建省]]の[[福州市|福州]]周辺において線麺がある(現在、福州では「索麵 ソッミエン」と称する<ref>馮愛珍 編、『福州方言詞典』p413、1998年、南京・江蘇教育出版社。同書に「線麺」という項目はなく、現在「線麺」(綫麵 シュインミン)と呼ぶのは福建省北部の[[建甌市]]周辺。</ref>)線麺は、北魏、唐、宋、元代に手工細麺と当初呼ばれ水引餅から索麺へ進化した。機械式までは、油を塗って、中国緑豆でんぶんを打粉にして、手延べしていた{{Sfn|奥村彪生|2009|p=138}}。福建省南部の[[泉州市|泉州]]では「麵綫 ミーソア」と呼び、「麵綫糊 ミーソアコー」と称するどろっとした煮込み麺にして食べることが多い。機械麺については[[河北省]]に「宮麺(コンミエン、gōngmiàn)」と呼ばれるものがあり、日本にも一時輸入されていた。
* [[台湾]]では、[[福建省]]南部の「麵線 ミーソア」が、[[鰹節]]を使った[[出汁]]を用い、[[カキ (貝)|牡蠣]]、豚の[[大腸]]、野菜などの具とともに煮て日常的に食べられている。
* [[大韓民国|韓国]]でも素麺を「{{lang|ko|소면}} ソミョン」と呼び、日常的に食べる文化が存在する。それに「[[ハレとケ|ハレ]]」の食物として麺類が用いられる風習が一部にあり、[[結婚式]]等の祝い事の席やそれが終わった後に素麺が振舞われる事がある<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/news/World/Asia/hangryu/issue/c/3.html わかなの韓式クッキング]{{リンク切れ|date=2019-12-1}} [[西日本新聞]]公式[[ウェブサイト|サイト]] 平成17年([[2005年]])[[2月8日]]掲載</ref>。
 
== 歴史 ==
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=== 近畿地方 ===
; 播州素麺:主産地は[[兵庫県]][[たつの市]]、[[宍粟市]]、[[姫路市]]など。2008年(平成20年)現在、日本国内1位の生産高を誇る。[[播磨国|播磨]]地方の良質の小麦、[[揖保川]]の清流、赤穂の塩など原料に恵まれていたことから素麺作りが盛んになった{{誰範囲2|と言われる|date=2017年11月20日 (月) 14:45 (UTC)}}。江戸時代の上方では、[[摂津国]]の灘素麺に後塵を拝していた。しかし、近代になって市街化が進んだことによって灘が急速に衰退。それに伴って灘の職人が播州に出稼ぎに出て技術を伝えたことで、品質が向上した{{誰範囲2|とも言われる|date=2017年11月20日 (月) 14:45 (UTC)}}(ブランドの詳細などは[[揖保乃糸]]を参照)。
; 淡路素麺:[[兵庫県]][[南あわじ市]](旧[[南淡町]])。[[19世紀]]前半に漁師の冬の副業として広まり、最盛期には140軒の製麺業者があった。他の産地におされて衰退し、2010年(平成22年)には17軒だけとなっている。寒冷な季節に、昔ながらの製法で大量生産せず、2日行程で生産している。太さによって、淡路糸、御陵糸、おのころ糸の商品名がある。技法を生かしたご当地グルメとして、[[淡路島ぬーどる]]が開発された<ref>「[http://osaka.yomiuri.co.jp/re-eco/news/20100409-OYO8T00482.htm 独自"食"「淡路島ぬーどる」、33店がオリジナルメニュー…手延べめん、玉ネギ必須]{{リンク切れ|date=2019-12-1}}」 [[読売新聞]]関西版 2010年4月9日</ref>。
; [[三輪素麺]]:[[奈良県]][[桜井市]]三輪地区。最も素麺作りの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流はほとんどが三輪からであり、古く素麺の相場は三輪で決められていた(その当時から生産量は少なく、主に島原から買い上げていた。この傾向は[[産地偽装]]問題が発覚する2000年(平成12年)頃まで続き、その当時では三輪素麺の7割は島原産であった)。現在でも島原など他県からの[[OEM]]による場合があるが、その場合は「三輪素麺」の名を冠しなくなっている(詳細は[[三輪素麺]]を参照)。かつては[[綿花]]の産地に近かったため、[[綿実油]]を使って延ばすのが特徴である。
 
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=== 九州地方 ===
; 神埼素麺:[[佐賀県]][[神埼市]]。生産量は多い(機械麺において日本国内3位<ref name="kanzaki">[http://www.citydo.com/soumen/men/men_a1.html#kanzaki 神崎そうめん(佐賀県)] [[サイネックス|CityDO!]] そうめん特集</ref>)。機械製麺の発祥地で、[[真崎照郷]]が[[明治]]7年([[1874年]])、素麺の製麺を手延べから機械化する事を思い立ち鉄工場を始め<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn52.html 電気灌漑事業と地域社会] JETRO([[日本貿易振興機構]])</ref>、明治16年([[1883年]])に製麺機を発明<ref name="habataku">[http://www.citydo.com/soumen/his06.html 未来へ羽ばたくそうめん] [[サイネックス|CityDO!]] そうめん特集</ref>(明治13年([[1880年]])発明との話もある<ref>平成18年([[2006年]])[[5月26日]]放送『[[未来創造堂]]』(日本テレビ系)「[[未来創造堂#シアター創造堂|シアター創造堂]]/第8回:製麺機・眞崎照郷」より。</ref>)した事に伴いそれ以降は機械製麺が発展し<ref name="kanzaki"/><ref name="habataku"/>、それにこだわりを持つ職人も少なくない<ref>[http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/zanza/41/01.html 季刊佐賀公式WEB ZANZA記事より]{{リンク切れ|date=2019-12-1}}</ref>。独特のコシの強さで知られ、冷して食するほか、温めて食べる「にゅうめん」でも有名。2006年、[[商標法]]に基づく[[地域団体商標]]([[地域ブランド]])として県内初登録。
; 島原素麺:[[長崎県]][[南島原市]]などが産地。全国で2番目の生産量である。発祥については諸説ある<ref>[http://www.shimabara-soumen.com/category/1572537.html 島原そうめんの歴史]</ref>が、[[島原の乱]]で人口が激減したため、幕府の政策で、四国から移住させられた人々(公儀百姓)の素麺づくりが始まり(小豆島伝来説 / 乱後移民伝来説)と、中国伝来説などがある。長崎では唐寺における仏事や一般の食生活として素麺が積極的に生産され、約400年前、[[島原半島]]にこれらの僧によってその製法が伝えられたとする説である。今でも福建省福州市では、長崎県南島原市で昔使用されていたこね鉢、巻き鉢、室、牛頭、バラ(竹で編んだ入れもの)などと同じような道具が使用されている。<ref>{{Cite news|title=島原手延そうめんについて {{!}} 島原手延そうめん - 日本の伝統を食す {{!}} 南島原市公式|date=2017-10-18|url=http://minamishimabara-somen.jp/somen/|accessdate=2018-07-02|language=ja|work=島原手延そうめん - 日本の伝統を食す {{!}} 南島原市公式}}</ref>また、[[遣唐使]]のルートとして長崎[[平戸市|平戸]]・五島列島があり、手延べの五島うどんが存在する<ref>{{Cite web|url=http://www.goto-tenobeudon.jp/history/index.html|title=五島手延うどん振興協議会 -五島うどんの歴史-|accessdate=2018-07-02|website=www.goto-tenobeudon.jp|language=ja}}</ref>ことや、[[肥前国|肥前]]日野江藩(のちの[[島原藩]])の藩主晴信の嫡男・[[有馬直純]]は当時の幕府への献上品に「素麺二千貫(御献上並び御進物用、江戸へ御仕送物)、素麺十五貫(御参勤の節、九月より霜月まで三度の御仕出)」を贈ったとの記録が当時の文献「国乗遺文」にあることから、島原の乱以前から素麺づくりが行われていたことが証明されており、中国伝来説が現在は有力と考えられている。品質に優れ、古くから三輪に供給されていた実績を誇り、全国へ流通される近年になってブランド力を高めている。
; 南関素麺:[[熊本県]][[南関町]]。麺が非常に細いのが特徴で、[[北原白秋]]が白糸のようだと形容した。将軍家、[[明治天皇]]などに献上された歴史を持つ。昔ながらの手延べ製法を守っているところが多い。
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; 久留里素麺(千葉県):[[千葉県]][[君津市]]久留里地区。良質の水に恵まれ、江戸幕府にも献上された歴史を持つ一大産地であった。
; 輪島素麺(石川県):[[石川県]][[輪島市]]。[[大門素麺]]は輪島素麺に勉強に行って発祥したと言い伝えがある。いわば大門素麺の祖先。
; 河内素麺(大阪府):[[大阪府]][[枚方市]]。近代に至るまで隆盛を極めたが、都市化や環境の劣化に伴って次第に衰退。21世紀に入る頃には自家消費での生産がわずかに残る状態であったが、伝統を受け継いでいた最後の農家が2012年に廃業し、古くから続いた生産者は途絶えた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/job/wlb/topics/20130226-OYT8T00512.htm 河内そうめん 私たちが継ぐ 地元夫婦が奮起]{{リンク切れ|date=2019-12-1}} - 読売新聞2013年2月26日</ref>。[[枚方市#伝統産業]]も参照。
; 灘素麺(兵庫県):兵庫県[[神戸市]][[東灘区]]など。三輪から技術を伝えられる。[[魚崎]]地方を中心に発展し、江戸時代には上方の代表産地として名を馳せた。明治時代後期から都市化などで急速に衰退。廃絶した。後に、灘素麺の技術は播州、鴨方など他産地に伝播した。