== 作法 ==
[[File:Kuranosuke_Harakiri_no_zu.jpg|thumb|260px|[[大石良雄]]の切腹。大石内蔵助義雄切腹之図]]
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたり<ref>軍記物の記述として、『[[北条五代記]]』(『北条盛衰記』本巻二)の[[三浦義同]]があり、『[[土佐物語]]』巻三にも、「腹十文字にかき切りければ」と記述がある。</ref>、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたと言われ、軍記物にもそのような描写が散見される(状況によっては、ただちに失血性ショックや[[腹膜刺激症状]]を起こし、失神ないし運動失調を来すため、実行は困難を極めるが、成功した例も報告されている<ref>{{Cite book|和書|author=A.B.ミットフォード|translator=長岡祥三|title=英国外交官の見た幕末維新|series=講談社学術文庫|year=1998|pages=153-154}}(原書は1915年刊)</ref>)。
近世に入り、武士身分の処刑罰としての切腹が確立すると、切腹にも作法が登場する。切腹する人を切腹人(せっぷくにん)という。切腹人に付き添いその首を切り落としたり、検視役に首を見せるなど、切腹の補助を行う者を介錯人(かいしゃくにん)という。腹部を切り裂いただけでは死亡までに時間がかかり、死ぬ者に非常な苦痛を強いるため、通常は介錯人が切腹直後に[[介錯]]を実行する。<!-- よって、名誉ある死に臨むに際し、-->江戸時代には、切腹は複雑で洗練された儀式となり、介錯がつく切腹の作法が確立した。切腹の作法が制定された時期については諸説あるも、18世紀の初め([[享保]]年間の前後)という説が有力である。
切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちからへその下まで切り下げる「十文字腹」がよいとされた。もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することがも多かったとされる。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす[[介錯]]の作法が確立した。介錯は通常、正副の2人、あるいは3人で務めた。それぞれ、3人の場合、首を打つ「介錯」(大介錯ともいう)」、短刀をのせた四方(4つ穴のある[[三方 (神道)|三方]])を持ち出す「添介錯」(助介錯ともいう)」、首を実検に入れる「小介錯」の三役である。介錯人については、首を一刀振りで切斬り落とすのは剣術に長けた者でないと勤まらず、下手な者の介錯ではしくじっては何度も切腹人を斬りつけ、余計な苦痛を与える事態になりかねない。介錯人は預かり人の家中の者が務める建前になっていたため、介錯の失敗は武術不心得として家の恥と見なされた。そこで、家中に腕の立つ者がいない場合は、他家に依頼して人を呼んでくることもあった。
切腹の場所は、大名 クラスや旗本などの 身分をはじめとする上級武士の場合は預かり人(切腹人の身柄を預かる人)の邸内、やや身分が劣る場合は預かり人の邸宅の庭先、さらに身分が劣る場合は牢屋の中とされた。 なお、[[足軽]]以下の身分 (足軽は「士」では無いとされた)は切腹を許されなかったとされる 。( なお、儀礼化されているわけではないため、介錯は任意である)。 <br />[[赤穂事件]]は、大名である [[浅野長矩 ]]が 「庭先にて切腹 」という、格下 の者の扱い で切腹を 強いらされたという事 実が要因とも言われる。 ▼
江戸時代中期には切腹は形式的なものとなり、四方に短刀の代わりに[[扇子]]を置き、それで腹を切る仕草をする、もしくは手をかけた瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。[[赤穂浪士]]も、比較的身分が高かった[[大石良雄]]ら数人以外は扇子や木刀を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた物もいたという逸話も残っている。ただし幕末になると、一部で本来の切腹が復活したことも記録されている。 ▼
▲切腹は武士と言えども大変な苦痛と覚悟を強いられるため、江戸時代中期に は切腹は形式的なものとなり、四方に短刀の代わりに[[扇子]]を置き、それで腹を切る仕草を するした、もしくは手をかけた瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。 赤穂事件に関与して切腹を命じられた[[赤穂浪士]]も、比較的身分が高かった[[大石良雄]]ら数人以外は扇子や木刀を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた 物者もいたという逸話も残っ ている。ただし幕末になると、一部で本来の切腹が復活したことも記録されている。
▲切腹の場所は、大名クラスの身分をはじめとする上級武士の場合は預かり人(切腹人の身柄を預かる人)の邸内、やや身分が劣る場合は預かり人の邸宅の庭先、さらに身分が劣る場合は牢屋の中とされた。なお、[[足軽]]以下の身分(足軽は「士」では無いとされた)は切腹を許されなかったとされる。(なお、儀礼化されているわけではないため、介錯は任意である)。<br />[[赤穂事件]]は、大名である浅野長矩が「庭先にて切腹」という、格下の者の扱いで切腹を強いられたという事実が要因とも言われる。
なお、比較的平穏だった江戸時代においては、どうしても腹を切れないという武士も少なからずおり、そのため切腹の代わりに「一服」という服毒自殺の方法も用意されていた<ref>{{Cite book|和書|author=山本博文|title=武士と世間|publisher=中央公論新社|year=2007|isbn=978-4121017031}}</ref>。[[幕末]]になると、一部で本来の切腹が復活したことも記録されている。
古式では寺院で、のちに預人の座敷または庭上で、行なわれた。
== 手順 ==
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