「専行院」の版間の差分
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はじめ[[駿河台]]の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、長じて清茂の養女として[[大奥]]へ奉公に上がり、やがて将軍家斉の側室となった。[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]に[[溶姫]]、文化12年([[1815年]])[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]に仲姫、文化14年([[1817年]])[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]に[[末姫]]を産んだ。仲姫は夭折したが、溶姫は[[加賀藩]]主[[前田斉泰]]、末姫は[[安芸国]][[広島藩]]主[[浅野斉粛]]へ嫁入りした。
家斉からの寵愛が深く、家斉にねだって
実父の日啓が住職を務める智泉院を将軍家の御祈祷所にした上、普段は外出を許されない大奥の女中たちを、お参りを口実にして智泉院へたびたび息抜きに訪れさせるようになる。智泉院では訪れる大奥女中たちを夢中にさせ、さらなる権力を手に入れるため、若い美僧を揃えて接待役にしたという。この智泉院で大奥の女性たちの若い僧との密会・遊興は次第にエスカレートし、問題視された。
尚、これまで上記と同様のことが、お美代が家斉にねだって建てさせ、日啓が住職を務めていたとされる[[感応寺 (豊島区)|感応寺]]でも行われていたと信じられてきたが、これは[[大谷木醇堂]]の「燈前一睡夢」で智泉院での密通事件と感応寺破却の一件が混同され<ref>「燈前一睡夢」での感応寺事件の記録は、あくまでも著者が祖父からの聞書によって記したことであり、資料的裏付けはない。また智泉院事件の関係者が処罰された天保12年[[10月5日]]の同日に、奇しくも感応寺の廃寺が決定した為に生じた誤解とされる。</ref>、また同書を参考にした[[三田村鳶魚]]の著書によって流布された誤解である<ref>[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P107「感応寺事件・誤解された事件」</ref>。日啓が感応寺の住職になったという事実はなく、感応寺は[[池上]][[本願寺]]の末寺として成立した寺であり、法系が異なる中山法華経寺の日啓が住職になるのはあり得ないとして、現在では否定されている<ref>竹内誠『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)P274「専行院」</ref>。
また前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には[[前田慶寧]]が誕生したが、大奥での権勢を固めたいお美代の方は家斉に孫の慶寧をいずれ第12代将軍家慶の継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている。この企ては、のちに[[広大院]](家斉の未亡人)や[[老中]]・[[水野忠邦]]らによって阻止された。
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お美代の方は、家斉引退後は大御所家斉に従って、正室や他の側室らと共に本丸大奥から西の丸大奥に移り住んだが、家斉死去後は落飾し、専行院と号して二の丸に居住した。
慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である12代将軍・[[徳川家慶]]が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は[[天保の改革]]を開始し、手始めに[[大御所時代]]に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、[[寺社奉行]][[阿部正弘]]に命じ
これに連座して天保12年(1841年)養父中野碩翁(清茂)は、登城を禁止され(表向きは、病気により辞職願いのところ、登城を御免)、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に[[逼塞]]し、その翌年に死去した。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭[[逼塞|御年寄]]だった花園とともに[[押込]]になった。<ref>深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』(文春新書)ISBN 978-4-16-660606-1</ref>
専行院のその後について、
明治5年(1872年)6月11日[[文京区]]の[[講安寺]]にて死去。76歳といわれている。駒込の[[長元寺]]に葬られたが、後に[[金沢市]]の野田山の墓地に改葬された<ref>野村昭子著『赤門は知っている』ISBN 978-4-7947-0592-1</ref>。法名は'''専行院殿舜沢亮照大禅定尼'''。
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