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→‎熱原法難: 迫害の頂点に達したのが9月12日とあった所を、9月21日に修正しました。9月12日は、瀧の口の法難の日です。 参考 創価学会マンガで見る日蓮大聖人の生涯
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当時は地方の有力寺院の住職まで幕府が直接任命する例が少なくなかった。竜泉寺の院主代・行智も熱原郷の領主である北条一族に属することから任じられたと推定される者で、正式の僧侶ではなかった(『日興上人日目上人正伝』82頁)。行智は寺院財産を私物化するだけでなく、寺の池に毒を入れて魚を殺し、それを村里に売り出すような乱行を重ねていたが、建治2年(1276年)には住僧である日秀・日弁・日禅に対して竜泉寺からの退去を要求した。
 
日秀らがそれに屈せず寺内にとどまって弘教活動を進めたため、行智側の迫害は激化し、弘安2年(1279年)には農民信徒に対する傷害や殺人事件まで惹起する事態となった。迫害が頂点に達したのは同年9月1221日である。その日、農民信徒が集まって稲刈りの作業をしているところを弓矢・刀で武装した武士の騎馬集団が襲撃し、20人を逮捕した。農民信徒は直ちに鎌倉に移送され、平左衛門尉頼綱の館に勾留されて平頼綱の尋問を受けることになった(事件が北条得宗家の領地内で起きたものであるため、平頼綱は侍所の所司ではなく得宗家の家司〈内管領〉として事件を扱った)。
 
日興は直ちに鎌倉に移動し、鎌倉の中心的門下である四条金吾頼基らと対応を協議したと推定される。日蓮もこの事件を日蓮教団全体にかかわる重大事件と受け止め、10月1日、四条金吾に宛てて「聖人御難事」を送り、権力の迫害を恐れず戦い抜くよう門下一同を指導した。