「感応寺 (豊島区)」の版間の差分

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== 発掘 ==
[[2000年]]([[平成]]12年)、[[豊島区教育委員会]]により行われた発掘調査で、本堂の礎石が目白4丁目から出土した<ref>旧感応寺境内遺跡発掘調査(豊島区教育委員会)</ref>。
 
== 誤解 ==
[[大谷木醇堂]]の「燈前一睡夢」では、[[江戸幕府]]11代将軍・[[徳川家斉]]の側室であった[[専行院|専行院(お美代の方)]]が、感応寺建立を家斉にねだり、実父であった日啓をその住職にしたと記されているが、日啓が感応寺の住職になった事実はない<ref name="makototakeuchi">[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P274</ref><ref>「燈前一睡夢」での感応寺事件の記録は、著者が祖父からの聞書によって記したものであり、資料的裏付けはない。</ref>。感応寺はあくまでも[[池上本門寺]]を主導として新寺建立が進められており、専行院が家斉に懇願して建立したという俗説は否定される<ref name="makototakeuchi">[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P274</ref>。
 
また専行院の手引きにより、感応寺の僧侶たちと[[大奥]]の女中たちが密通を繰り返し、事件発覚後に寺が廃寺となったという俗説が'''感応寺事件'''として一般にも知られているが、僧侶と大奥女中との密通が行われたのは日啓が住職を務める智泉院であり(智泉院事件)、感応寺ではない。奇しくも智泉院事件の関係者が処罰された天保12年([[1841年]])[[10月5日]]の同日に、感応寺の廃寺が決定した為、前記の「燈前一睡夢」によって智泉院事件と感応寺破却の一件が混同され、本書を参照した[[三田村鳶魚]]によって世間に流布される形となった<ref>竹内誠『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)P107「誤解された事件」</ref>
 
密通事件そのものは智泉院の醜聞と結びつけられた誤解であるが、感応寺が徳川将軍家の私的な[[祈祷|祈祷所]]として大奥女中たちの贔屓を受けたことは確かであり、また天保5年([[1834年]])に感応寺が「中野氏女性(お美代)」に対して「御取持」の報恩として、紺紙金泥法華経と日顗上人筆の御本尊を進呈しており、専行院が将軍家との仲介をしていたことは留意される<ref name="makototakeuchi">[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P274</ref>。
 
== 出典 ==