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{{出典の明記|date=2018-03-13}}
[[Image:Codex Manesse Hartmann von Aue.jpg|right|thumb|200px|マネッセ写本の挿絵、ハルトマン・フォン・アウエ]]
'''マネッセ写本''' (Codex Manesse oder Die Manessische Liederhandschrift) は、[[中世]]盛期における[[ドイツ]]の代表的な140人の宮廷詩人([[ミンネザング|ミンネゼンガー]])の詩歌(愛の歌)を収録した大型の豪華彩飾[[写本]]。詩節計 6000。最も総合的に収集された中世の詩集として、また各宮廷詩人を描いた美しい挿絵(細密画)で知られている。'''大ハイデルベルク歌謡写本''' (Die Große Heidelberger Liederhandschrift)とも。羊皮紙製 一葉の大きさ:350 x 250 mm、文字部分 260 x 175 mm、 2段組、各段 46行、計426葉。脚韻の後の「・」が詩句 (Vers)を区切る。 詩節ごとに段落。各詩節は飾り大きい文字で始まる。
 
 [[チューリッヒ]]の都市貴族マネッセ家の注文により、1280年頃から1330年頃までおおよそ50年をかけて作成されたと考えられている。[[ゴットフリート・ケラー]]は"ハートラウプ" (1878)の中で、編纂者はミンネゼンガーの一人であるヨハネス・ハートラウプ(Johannes Hadlaub) だと推測している。
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 写本には王侯を含む各宮廷詩人を描いた137枚の細密画が含まれ、[[貴族]]の場合は[[馬上槍試合]](トーナメント)に参加した際の[[紋章]]をあしらった完全武装(従って顔は見えない)の姿で描かれていることが多い。詩人の名前をモチーフとしたり、その詩のイメージで描かれている図案も少なくない。両方のモチーフを含む顕著な例が'''ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの細密画'''で、画面の上方、楯の表面と兜飾りに詩人の名前フォーゲルヴァイデ(鳥の餌場)にちなむ鳥かごがあしらわれ、画面中央には、彼の最も有名な格言詩の冒頭部分そのままの詩人の姿が描かれている<ref>格言詩「悪い時世」(L. 8, 4) は次のように始まる。「岩に腰かけ / 脚をくみ / その上に肘をばついて / 頤と片頬を / 手のひらにうずめ / わたしは 一心不乱に考えた、/ いかにこの世を生くべきかと。」(石川敬三訳 「ワルター 詩集」(Gedichte):訳者代表 呉茂一・高津春繁『世界名詩集大成 ①古代・中世編』平凡社、1960年、289頁)。</ref>。
 
 紋章・兜飾り等の正確さについては疑問があり、むしろ理想の宮廷生活が描かれているていえるが、細密画は数多く模写複写されて広まっている。
 写本に遺された作品の作者は、多くが100年以上前に活躍した詩人であるが(例えば、ハインリヒ・フォン・フェルデケは12世紀後半)、写本制作時に近い時代に活躍した詩人(例えば、ハインリヒ・ティシュラーは14世紀初め)もおり、優に150年超にわたる詩歌作品の集成がこの写本である。
 
 
 写本に遺された作品の作者は、多くが100年以上前に活躍した詩人であるが(例えば、デア・フォン・キューレンベルクやハインリヒ・フォン・フェルデケは12世紀後半)、写本制作時に近い時代に活躍した詩人(例えば、ヨハネス・ハートラウプやハインリヒ・ティシュラーは14世紀初め)もおり、ミンネザングの最初期から凋落期までを包括する、優に150年超にわたる詩歌作品の集成がこの写本である。「地域的にも広範囲にわたり、シュタウフェン王朝の拠点であり宮廷詩の温床であったシュヴァーベン、フランケン、エルザスを中心としながらも、バイエルン、スイス、オーストリア(シュタイエルマルク、ケルンテンを含む)に跨がり、さらにテューリンゲンなどの北ドイツからルクセンブルク、ブラバントに広がる」<ref>国松孝二「Codex Manesse素描」(クロノス 1974. 再録:同著『浮塵抄』同学社1988. ISBN 4-8102-0078-7 C 1098, 223頁)</ref>。
 
 
 
 紋章・兜飾り等の正確さについては疑問があるが、数多く模写されて広まっている。
 
[[Image:Codex Manesse Johannes Hadlaub.jpg|left|thumb|200px|マネッセ写本の挿絵、編纂者と推定されていヨハネス・ハートラウプ]]
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 各詩人の順番は概ね身分の順で、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]から始まり、[[コッラディーノ|コンラディン王]]、[[公]]、[[伯]]、[[騎士]]、[[平民]]と続いている。
 
 写本成立後200年間、その存在場所を示すものは知られていないが、1594年にハイデルベルクの選帝侯の宮廷顧問官 (Hofrat des Kurfürsten von Heidelberg) Johann Philipp von Hohensax男爵所有し城主となっていたスイス・ライン渓谷のForstegg城それは現れる。Johann Philippが戦死するとネーデルランドの男爵家出身の妻は写本をザンクトガレンの法学者Bartholomäus Schobinger に委ねた。彼は博学のMelchior Goldastとともに、その抜粋一部出版書き写ていた。1607年にはハイデルベルクの選帝侯家の所有すところになり、それ以前経歴は不明である。1657年以降はパリに移管され、フランス王立図書館(現在の[[フランス国立図書館]])に保管されていた<ref>1831年パリに着いたハインリヒ・ハイネにとって、自分の目でマネッセ写本を、「ドイツ最大の抒情詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの詩」を見ることほど重要なことはなかった("Gedichte fürs Gedächtnis zum Inwendig-Lernen und Auswendig-Sagen". Ausgewählt und kommentiert von Ulla Hahn. Mit einem Nachwort von Klaus von Dohnanyi. Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1999, 15. Auflage 2005. ISBN 3-421-05147-X. S. 38; "Der erste Weg, den Heine in Paris einschlägt, gilt [...] der Königlichen Bibliothek, in der er das Original der 'Manessischen Liederhandschrift' aus dem Mittelalter besichtigt" (Josef Rattner: Heinrich Heine oder ein Sänger der Freiheit, in: Gerhard Danzer [Hg.]: Dichtung ist ein Akt der Revolte. Literaturpsychologische Essays über Heine, Ibsen, Shaw, Brecht Und Camus. Würzburg: Königshausen & Neumann 1996, S.30)。</ref>]。1690年にデンマーク人Frederik Rostgaardが写本の全部を書き写した。その後Johann Jakob Bodmer とJohann Jakob Breitingerがこの写本とRüdiger Manesseを結び付け、この写本を「マネッセ写本」と称した。
 
19世紀に入ると、これをドイツに取り戻そうとする、または買い戻そうとする交渉が幾度となく試みられたが、いずれも失敗に終わった。1888年に、ハイデルベルク出身の書店主が、フランス国立図書館の探し求めていた写本166編を国費の援助をえてイギリスから購入し、これらとの交換の交渉に成功した。以来この写本はハイデルベルク大学図書館に収蔵されている (ミンネザングの写本としては Hs. C)<ref>複製本 (Codex Manesse : Die große Heidelberger Liederhandschrift ; 1. Teillieferung - Kommentar Faksimile-Ausg. -- Insel Verlag, [1975]-1981.) はフランクフルト・アム・マインのインゼル社により出版され、名古屋大学図書館をはじめ日本の諸大学図書館で手に取ることができる。</ref>。Cpg 848. http://www.handschriftencensus.de/4957.
Hohensax男爵が所有していた時に、Melchior Goldastが、その抜粋を出版しているが、それ以前の経歴は不明である。1657年以降は、フランス王立図書館(現在の[[フランス国立図書館]])に保管されていたが<ref>1831年パリに着いたハインリヒ・ハイネにとって、自分の目でマネッセ写本を、「ドイツ最大の抒情詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの詩」を見ることほど重要なことはなかった("Gedichte fürs Gedächtnis zum Inwendig-Lernen und Auswendig-Sagen". Ausgewählt und kommentiert von Ulla Hahn. Mit einem Nachwort von Klaus von Dohnanyi. Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1999, 15. Auflage 2005. ISBN 3-421-05147-X. S. 38; "Der erste Weg, den Heine in Paris einschlägt, gilt [...] der Königlichen Bibliothek, in der er das Original der 'Manessischen Liederhandschrift'
aus dem Mittelalter besichtigt" (Josef Rattner: Heinrich Heine oder ein Sänger der Freiheit, in: Gerhard Danzer [Hg.]: Dichtung ist ein Akt der Revolte. Literaturpsychologische Essays über Heine, Ibsen, Shaw, Brecht Und Camus. Würzburg: Königshausen & Neumann 1996, S.30)。</ref>、1888年に[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]や[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が中心となった寄付金により[[ハイデルベルク]]が購入した。1888年以来この写本はハイデルベルク大学図書館に収蔵されている (Hs. C)<ref>複製本 (Codex Manesse : Die große Heidelberger Liederhandschrift ; 1. Teillieferung - Kommentar
Faksimile-Ausg. -- Insel Verlag, [1975]-1981.) はフランクフルト・アム・マインのインゼル社により出版され、名古屋大学図書館をはじめ日本の諸大学図書館で手に取ることができる。</ref>。Cpg 848. http://www.handschriftencensus.de/4957.
 
 なお、同図書館は'小ハイデルベルク歌謡写本' (Die Kleine Heidelberger Liederhandschrift; Hs. A) をも所蔵している。後者は前者よりも古く、1270-1280年頃の制作とされる。両写本成立の間に完成したのがシュトゥットガルト州立図書館蔵の『ヴァインガルテン写本(英語版)』(Die Weingartner Liederhandschrift; Hs. B)であり、古い写本から順にHs. A, Hs. B, Hs. Cと略号が付されている。
 
 最初のマネッセ写本の本文校訂版は19世紀めに出されている。
 
==参考文献==