「光格天皇」の版間の差分

編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
== 略歴 ==
元々は、閑院宮家から[[聖護院]]に入寺し[[出家]]する予定であったが、[[安永]]8年10月29日([[1779年]]12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに[[内親王]]しかおらず、皇子がいなかったため、[[世襲親王家]]から新帝を迎えることになった。当時、後継候補者として[[伏見宮貞敬親王]]・[[閑院宮美仁親王]]と美仁親王の弟・祐宮師仁王の3人がいたが、先帝の唯一の遺児[[欣子内親王]]を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち[[近衛内前]]は貞敬親王を、[[九条尚実]]は師仁王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、天皇と血筋が近い師仁王が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。安永8年11月25日(1780年1月1日)、[[践祚]]。直前に儲君に治定されていたものの、[[親王宣下]]及び[[立太子]]はなされなかった。なお、この時に先々帝[[後桜町上皇]]は皇嗣継承のために[[伏見宮]]と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就くことはなかった。
 
[[天明]]2年([[1782年]])、[[天明の大火]]により[[京都御所]]が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、[[聖護院]]を仮御所とした<ref>[[恭礼門院]]は[[妙法院]]、後桜町上皇は[[青蓮院]]([[青蓮院|粟田御所]])にそれぞれ移った。後桜町上皇の生母青綺門院の仮御所となった[[知恩院]]と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。</ref>。また、[[寛政]]11年([[1799年]])、聖護院宮盈仁法親王が[[役行者]]御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に[[大納言|権大納言]]烏丸光祖を[[勅使]]として聖護院に遣わし、[[神変大菩薩]](じんべんだいぼさつ)の[[諡号]]を贈った。
匿名利用者