「吉良義安」の版間の差分

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義安は、以降10年余りを駿府で人質として暮らすことになったが、このときに同じく今川氏の人質となっていた松平竹千代(のちの[[徳川家康]])と親しくなり、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に家康が元服した際には理髪役も務めた<ref>義安の最終的な追放と義昭への当主交代を弘治年間とする小林輝久彦は吉良氏の当主が代々努めてきた安祥松平氏当主の元服の烏帽子親を今川義元に奪われたことで三河国主としての面子を失い、今川氏に反乱を起こしたとする(小林、2019年、P273-276.)。</ref>。[[永禄]]3年([[1560年]])6月の[[桶狭間の戦い]]で今川義元が戦死したため、この際に家康とともに人質から解放されて三河に戻った。
 
ただし、この間の経緯について『寛政重修諸家譜』は、永禄4年(1561年)、[[今川氏真]]が義安の謀反を疑って駿河に抑留し、かわりに義昭を東条に移して両吉良氏を併せたとしている。更にこれとは別に近年の研究として、『松平記』に記された弘治年間の吉良氏の挙兵について、駿府に送られた吉良義安は一旦は赦されて両吉良氏の当主として三河へ帰国を許されの、弘治元年(1555年)に再度今川氏に対して兵を挙げたもので、最終的に弘治3年(1557年)に三河を追放されたものとする。また、弘治3年に西条吉良領で今川氏が大規模な検地が行われているのは、義昭を東条に移して両吉良氏を併せた形を取っているものの、実際には西尾城と西条領は今川氏によって直轄地にされたものとする<ref>小林、2019年、P266-276.</ref>。小林輝久彦は『[[信長公記]]』に弘治3年4月に行われてたと推測される上野原参会(「吉良殿」と尾張守護家の[[斯波義統]]を仲介として今川義元と[[織田信長]]が和解をしようとしたものの、どちらを上座にするかで揉めて和解は成立しなかった)の「吉良殿」を義と推測し、織田氏と結びついて反乱を起こしていた吉良義安を義元が利用することで信長と和睦しようとしたものの失敗に終わったために義が三河にいられなくなって尾張に逃れ、更に斯波義統や[[石橋氏]]と信長排斥を企てたとして尾張からも追われて三河に帰国したところ今川氏真によって再度幽閉されたとする説を唱えている(小林は今川氏からすれば、天文18年の反乱の際には今川氏の宗家としての吉良氏の立場を慮って義安を赦免して両吉良氏の当主の地位を保証したのに、それがことごとく裏切られた結果、義昭の擁立に踏み切ったとしている)<ref>小林、2019年、P263-265・272-273.</ref>。
 
一方、弟の吉良義昭は今川氏の後援を失って孤立し、徳川家康への屈従を余儀なくされていた。永禄5年([[1562年]])、義昭は再起を図って三河の一向宗門徒と結び、徳川氏と戦ったが([[三河一向一揆]])、敗れて三河から逃亡する。このあと、家康から義安が東条西条の吉良氏を統一して領有することが認められた。