「マヌエル・コムネノス・ドゥーカス」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=人1237年没___世界史}}
'''マヌエル・コムネノス・ドゥーカス'''('''Μανουήλ Κομνηνός Δούκας''', Manouel Komnenos Doukas, 生年不詳-[[1241年]]没)は[[エピロス専制侯国|エピロス・テッサロニキ専制公]]([[1230年]]-[[1237年]])。中世ギリシア語表記ではマヌイル・コムニノス・ドゥカス。[[テッサロニキ帝国]]「[[皇帝]]」[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]の弟。父系ではアンゲロス(Άγγελος, Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。
 
兄テオドロスがクロコトニツァの戦い([[1230年]])で捕虜になった後、統治職を代行する。しかしテオドロスは[[1237年]]に[[ブルガリア帝国]]皇帝[[イヴァン・アセン2世]]によって釈放され帰国すると、マヌエルを市から追放し長子[[ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公)|ヨハネス]]をその支配に据えてしまう。マヌエルはやむなく[[テッサリア]]に逃れてそこに支配権を確立する。これによってかつての「テッサロニキ帝国」はテッサロニキ(ヨハネス)、テッサリア(マヌエル)、エピロス([[ミカエル2世アンゲロス・コムネノス|ミカエル2世]])の三国に分割された事になる。マヌエルは[[1241年]]頃に死去し、その遺領はミカエル2世が併合した。