「三別抄」の版間の差分

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== 三別抄のその後について ==
20世紀後半に、[[沖縄県]][[浦添市]]浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が[[珍島]]に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、[[癸酉]]年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。[[国士舘大学]]教授の[[戸田有二]]は、これが1273年だとすれば、三別抄が[[済州島]]で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もしている<ref>[http://kinur.exblog.jp/7839215/ 珍島からイルボンへ] - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ</ref>。なおその時代、[[徳之島]]には既に高麗陶工が入り[[カムィ焼]]の生産に従事していた事が確実視されている<ref>『11~12世紀初頭の日麗交流と東方ユーラシア情勢』中村翼(2014年)、[[帝国書院]]”高等学校 世界史のしおり2014年度1学期号より</ref>。
 
==脚注==