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'''ユーリー・ラストヴォロフ'''({{lang-ru|Юрий Александрович Растворов}}、[[1921年]][[7月11日]] - [[2004年]][[1月19日]])は、[[ソビエト連邦|ソ連]]の職業的[[スパイ|諜報員]]、軍人、[[チェーカー|チェキスト]]。中佐。
 
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帰国前日の1月24日、工作中に知り合った英語教師(アメリカの防諜員)[[メリー・ジョーンズ]](後の妻)と接触し、[[CIA]]の代表部に引き渡された。ラストヴォロフは、飛行機で東京から[[沖縄県|沖縄]]に、その後[[グアム]]の米軍基地に移された。
 
事件発覚後、西側のマスコミは、この事件をセンセーショナルに報道した。また、日本側の報道でも、1954年8月14日付『[[朝日新聞]]』が、[[外務省]]と[[公安調査庁]]の共同発表を「ラストボロフ事件の真相」という見出しをつけて掲載している。各種報道によると、ラストヴォロフ自身は、36人の日本人エージェントを有していたと証言したとされる。まもなくエージェントの1人、元[[関東軍]]航空参謀少佐[[志位正二]]が自首した。志位は[[ソ連]]抑留中にスパイになることを強要されて帰国し、主として日本の再軍備についてラストボロフに報告、月一回、計30回にわたって約50万円を受け取ったといわれている。[[8月14日]]、[[外務省]]欧米局第5課事務官・[[日暮信則]]、国際協力局第1課事務官・[[庄司宏]]が国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反の容疑で逮捕され、[[8月19日]]、外務省経済局経済2課事務官・[[高毛礼茂]](暗号名・エコノミスト)が同容疑で逮捕された。[[日暮信則]]は、事件の取調中、4階の窓から飛び降りて[[自殺]]した。[[高毛礼茂]]は懲役8月、罰金100万円の判決を受けたが、庄司宏<ref>この後、外務省を退官。弁護士となり、[[救援連絡センター]]を開設して代表に就任。1990年死去。</ref>は証拠不十分で無罪判決を受けた<ref>『戦後政治裁判史録(第二巻)』{{要ページ番号|date=2019年12月}}</ref><ref>三宅正樹『スターリンの対日情報工作』{{要ページ番号|date=2019年12月}}</ref>。
 
同年、ソ連の軍事裁判所は、欠席裁判でラストヴォロフに死刑を言い渡した。同僚の[[ワシーリー・ソコロフ]]は、諜報部を解雇され、[[ソ連共産党]]から除籍された。