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君主制は廃止されたが、メクレンブルク=シュヴェリーンとメクレンブルク=シュトレーリッツは統一されることなくそれぞれ個別に[[自由州 (ドイツ)|自由州]]となり、独自の州憲法を制定して独自の州議会を有した。一方で、上級裁判所についてはロストックにあったメクレンブルク上級控訴裁判所を共有した。
 
[[メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州]]は[[プロイセン自由州]]の県ほどの大きさしかない小州で、財源も乏しかったことからわずか数年で財政的に行き詰まり、1920年代後半にはメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合邦やプロイセン自由州からの支援取り付けが模索されたが、結論が出ないままであった。その後、[[ナチス・ドイツ|ナチ党政権]]による[[強制的同一化]]の過程で国家代理官が置かれることになると、メクレンブルクの国家代理官となったフリードリヒ・ヒルデブラントが両自由州を合邦させることを決定し、[[1934年]]1月1日に約3世紀ぶりに{{仮リンク|メクレンブルク州 (1934年-1952年)|de|Land Mecklenburg|label = [[メクレンブルク州}}]]として統一された。
 
1937年に{{仮リンク|大ハンブルク法|de|Groß-Hamburg-Gesetz}}が制定されると、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方にあった飛び地のドームホフ・ラッツェブルクとハマー、マンハーゲン、パンテン、ホルスト、ヴァルトスフェルデをハンブルク都市圏のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク地区に譲り、代わりに[[リューベック]]からウテヒトとシャッティン (現在のリューダースドルフ地区) を移管された。シュターフェンハーゲン近郊にあった[[ポンメルン]]の飛地のツェッテミンもに移管された。