「メクレンブルク=シュトレーリッツ」の版間の差分

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メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州は[[ドイツ国]]でも特に小さい州のひとつであり、君主制廃止からわずか数年で財政的に維持できないことが明らかになった。1926年には接収した大公家の財産が底をついたことから、[[ライプツィヒ]]の[[ライヒ裁判所]]にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合併を訴え出たが、うまくいかなかった。また、1926年にはメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州がメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を相手取ってドイツ・ライヒ国事裁判所に旧修道院および旧領の共同処分をめぐる裁判を起こした。ドイツ・ライヒ国事裁判所での公判でメクレンブルク=シュヴェリーン自由州は、1701年のメクレンブルク=シュトレーリッツ公国の成立の経緯を引き合いに、アドルフ・フリードリヒ6世の死によってシュトレーリッツ大公家が断絶した以上、その所領は本家たるシュヴェリーン大公家に戻ったのであり、メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州にはそもそもシュトレーリッツ大公家の資産に関する権利はないと主張した。しかし、メクレンブルク=シュヴェリーン自由州・メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州の双方とも州憲法で旧大公国の所領を州の範囲と定めていることから、その主張は退けられた<ref>Zwischenentscheidung des StGH vom 5.&nbsp;Juni 1926, [[Entscheidungen des Reichsgerichts in Zivilsachen|RGZ]] 113, Anhang S.&nbsp;1&nbsp;f. [http://www.saarheim.de/Entscheidungen/RGundStGH/StGH%20in%20RGZ%20113,%20Anh%201.pdf Digitalisat]</ref>。
 
1932年には[[プロイセン自由州]]に吸収される計画が持ち上がったが、[[ナチ党]]が1934年1月1日にメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州とメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を合併させて{{仮リンク|メクレンブルク州 (1934年-1952年)|de|Land Mecklenburg|label = [[メクレンブルク州}}(Land Mecklenburg)]]としたことから頓挫した。しかし、この合併の採決の直後に州議会が解散されたため、メクレンブルク州は実際にはナチ党のメクレンブルク[[大管区 (ナチ党)|大管区]]そのものとなった。
 
== メクレンブルク=シュトレーリッツの統治者 ==