「岩崎弥之助」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
生存の廃藩置県跨がり対処
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[[1872年]](明治5年)4月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に留学。横浜で貿易商をしていた[[ウォルシュ兄弟|ウォルシュ・ホール社]](Walsh, Hall and Co.)のウォルシュ家に寄宿し、[[フランシス・ホール]](同社の社員だが創立者のホールとは別人)の兄エドワードが開校し校長をしていた[[ニューヨーク]]近郊の[[コネチカット州]]エリントンにある男子校(Edward Hall's Family School for Boys)に通った<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=qZxlAgAAQBAJ&pg=PA48 "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" ]Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013</ref><ref>[https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man06.html 三菱人物伝「三菱の人ゆかりの人」vol.06 ウォルシュ兄弟]三菱グループ公式サイト</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=JHcfiaG2Y4sC&pg=PA90 "Ellington" p90 ]Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005</ref>。[[1873年]](明治6年)11月に父の弥次郎が急逝し、兄の懇願もあって1年で留学を中断して帰国。三菱商会に入社。翌年の[[1874年]](明治7年)の秋、弥太郎夫婦の仲人で[[後藤象二郎]]の長女・早苗子と結婚した<ref> 『岩崎俊彌傳』 故岩崎俊弥氏伝記編纂会、[[1932年]]、第二篇 小傳、家系 P177。</ref>。
 
敬愛する弥太郎の事業を助け、米国の[[太平海郵便汽船]]や英国のP&O汽船会社との競合に手腕を振るう、[[1885年]](明治18年(1885年)2月に弥太郎が死亡してからは2代目総帥として三菱の多角化に尽力。三菱商会に[[共同運輸会社]]を合併して[[日本郵船]]を誕生させ、海運部門を切り離すことで、鉱山開発や造船建造、地所、金融、倉庫などの事業を興した。
 
[[1890年]](明治23年、政府から丸の内の土地購入の打診があり、[[荘田平五郎]]や[[末延道成]]に相談したうえで120万円で購入。後の『三菱の三大買い物』の1つ<ref>後の2つは兄の岩崎弥太郎による外国人からの上海航路(84万円)と後藤象二郎からの高島炭鉱(100万円)の購入である。</ref>に挙げられている。
 
[[1893年]](明治26年に三菱合資会社を設立。三菱の総帥の座を甥の[[岩崎久弥|久弥]](弥太郎の長男)に譲り、監務(今の相談役)の役職に就く。
 
[[1896年]](明治29年には[[川田小一郎]]の後任として第4代[[日本銀行]]総裁となるも、当時の大蔵大臣と折り合いが悪く、2年ほどで退職した。
 
帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となったが<ref>勅選議員は終身となるが、弥之助が登院したのは第1回帝国議会のみである。</ref>、1891年(明治24年)9月30日に辞職した<ref>『官報』第2479号、明治24年10月2日。</ref>。