「ルーシ人」の版間の差分

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}}</ref>が、これは当時ウラジーミルを含むルーシの諸地方を「ローシア」(ルーシの[[ギリシア語]]形)と呼んでいた[[ビザンツ帝国]]との二国間関係が理由であった。全体として当時の北東地方の年代記はルーシについてあまり言及しておらず、支配者層である公たちのルーシ人としての自意識は、広く一般に共有されたものではなくビザンツや[[ジョチ・ウルス]]など対外関係に限定されたものであった<ref name="中沢2002-44"/>。
 
ルーシの政治的な分裂状況の中、正教はルーシ諸公国を互いにつなぎとめる役割を果たし、ルーシは完全に崩壊するには至らなかった<ref name="中沢2002-40"/>。このことは、政治状況によっては幾度か[[モスクワ国家]]とウクライナ・ベラルーシのルーシ人とのあいだにカトリックのポーランドに対立する同盟関係を成立させた。しかし、モスクワ国家が[[中央集権]]化するに従い伝統的なルーシ人のアイデンティティーは次第に変質していき、「ロシア人のアイデンティティー」に変容した<ref group="注">「ルーシ」のギリシア語名であった「ローシア」という[[外名]]は、モスクワ国家が帝国化していったこの時期に[[ロシア語]]化して「ロシーヤ」、つまり「ロシア」になった。</ref>。[[ロシア帝国]]({{Lang|ru|РоссійскаяРоссийская имперіяимперия}}、決して {{Lang|ru|Русская}} ではない)が成立するまでに「ロシア」という名称が確立していき、帝国の成立以降、ルーシという名称は国号としても君主号としても正式なものとしては用いられなくなった<ref>{{Cite_book|和書
|author = 中沢敦夫
|title = ロシアはどこからやって来たか : その民族意識の歴史をたどる