「ギル・ホッジス」の版間の差分

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* ニューヨーク・メッツ (1968 - 1972)
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'''ギルバート・レイモンド・ホッジス'''('''Gilbert Raymond Hodges''', [[1924年]][[4月4日]] - [[1972年]][[4月2日]])こと'''ギル・ホッジス'''は、[[アメリカ合衆国]][[インディアナ州]]出身の[[メジャーリーグベースボールの選手一覧|野球選手]]([[内野手]])・[[メジャーリーグベースボールの監督一覧|監督]]。
 
監督としても{{by|1969年}}に[[ワールドシリーズ]]制覇を果たす。
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この年も[[1949年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]でヤンキースに1勝4敗で敗れたが、第2戦では両チーム唯一の得点となるタイムリーを打ち、チームを勝利に導いた。当時は[[二塁手]][[ジャッキー・ロビンソン]]、[[遊撃手]][[ピー・ウィー・リース]]、[[中堅手]][[デューク・スナイダー]]、[[捕手]]キャンパネラといずれも[[アメリカ野球殿堂]]入りを果たしたスター揃いのチームにあって、強打・好守の一塁手として活躍した。
 
[[File:Gil Hodges 1953.jpg|thumb|175px|[[エベッツ・フィールド]]の試合にて一塁の守備につくホッジス(1953年)]]
{{by|1950年}}8月31日の対[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・ブレーブス]]戦では、9イニングでの達成としては[[ルー・ゲーリッグ]]に次ぐ史上2人目となる1試合4本塁打を記録。4本すべて違う投手から打ち、1本目は左腕最多の363勝を挙げ、[[アメリカ野球殿堂|殿堂]]入りした[[ウォーレン・スパーン]]から打った。この年も守備率(.993)と併殺(159)はリーグ1位で、併殺はナ・リーグ記録であった。翌{{by|1951年}}には171併殺で自ら更新し、ドジャース球団史上初の40本塁打を打つ。この記録は{{by|1953年}}にロイ・キャンパネラ(41本)に破られるが、{{by|1954年}}に42本で再び塗り替え、スナイダーが{{by|1956年}}に43本塁打を打つまで球団記録であった。ファンからも大きな支持を受け、本拠地[[エベッツ・フィールド]]で野次を受けることのない選手であった。