「治天の君」の版間の差分

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Ts8459575 (会話 | 投稿記録)
皇室は家ではない
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Ts8459575 (会話 | 投稿記録)
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[[保元]]元年([[1156年]])、鳥羽天皇が崩御すると、[[崇徳天皇|崇徳上皇]]と[[後白河天皇]]の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年([[1158年]])に譲位すると院政を開始した。[[平清盛]]による院政停止や[[高倉天皇|高倉]]院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは[[建久]]3年([[1192年]])に崩ずるまで治天の地位を保った。
 
さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽天皇が皇女の八条院に相続した荘園群である[[八条院領]]、後白河が長講堂という寺院に寄進した[[長講堂領]]などがある。治天の君は家督者当主として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。
 
=== 鎌倉期 ===