「大崎 (大奥御年寄)」の版間の差分
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== 生涯 ==
大崎というのは大奥での通称であり、出自など
長じて[[江戸城]]西の丸へ移動しており、[[安永]]7年([[1778年]])前後の「分限帳」の記録によると、この頃は御客会釈を務めていたという。
[[天明]]7年([[1787年]])、10代将軍・[[徳川家治]]死後、[[田沼意次]]から[[松平定信]]に[[老中]]が移り変わったことに大きく影響されていると云われている<ref>具知會「大奥の老女の性格 : 政治的な活動を中心として」(比較日本学教育研究センター研究年報、2011年)</ref>。▼
[[天明]]元年([[1781年]])、家斉の将軍[[世子]]擁立が公表される直前に本丸大奥の御年寄に昇進した<ref>[[竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[2015年]]、[[東京堂出版]])P213</ref>。
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定信とは親しく、「表は松平定信・奥は大崎」と莫大な権力を誇る。しかし、定信の老中就任後、彼と初めて会った際に「(老中と御年寄は)御同役であるから、奥向きのことは御相談申して…」と発言したことから「同役とは何だ。大奥に老中があるのか」と定信を激怒させた<ref name="yurayayoi">由良弥生『大奥よろず草紙』([[2003年]]、[[原書房]])P60</ref>。以後両者は対立し、定信が大奥に改革のメスを入れようとすると、早々に大奥から退いた<ref name="yurayayoi">由良弥生『大奥よろず草紙』([[2003年]]、[[原書房]])P60</ref>。その後どうなったかはわかっていない。
上記のような経緯から、家斉時代の大奥を代表する御年寄として取り上げられることが多いが、[[天明]]7年([[1787年]])の「分限帳」の記録では、大崎は序列7位の御年寄であり、その後も[[高岳 (大奥女中)|高岳]] 、滝川、野村には及ばず一度も筆頭にはなっていない<ref>[[竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[2015年]]、東京堂出版)P86‐P89</ref>。▼
▲上記のような経緯から、家斉時代の大奥を代表する御年寄として取り上げられることが多いが、
== 登場作品 ==
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