「ワシントン・アーヴィング」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ファイル:Salmagundi-title.jpg|サムネイル|自費出版していた社会風刺雑誌『サルマガンディ』]]
アーヴィングはニューヨークの[[マンハッタン]]に商人の息子として生まれた。父親は[[スコットランド]]系、母親は[[イングランド]]系の移民で、11人兄弟の末っ子だった。名前は[[ジョージ・ワシントン]]にちなんで命名された(子供のころジョージ・ワシントンに実際に会っている)。[[1804年]]、保養かたがたヨーロッパに遊び、[[1806年]]に帰国して弁護士を開業、傍ら文筆に親しんだ
 
1802年、法律事務所で見習いをする傍ら、兄ピーターの『モーニング・クロニクル』誌に「ジョナサン・オールドスタイル」のペンネームでニューヨークの風俗を風刺するエッセイを発表。
[[1807年]]に兄や友人らとともに、ユーモアやパロディを交えて社会情勢を語る雑誌『サルマガンディ』を発行。[[1809年]]には、最初の自著『ニューヨークの歴史』を上梓。同時期に、17歳の恋人を亡くしている。[[米英戦争]]の影響で、アーヴィング家の商売に行き詰りが生じ、イギリスで貿易商をしていた兄を手伝うために[[1815年]]に渡英。兄が病気になり破産したため、家計を助けるため執筆に励み、以後17年間をヨーロッパで過ごす。[[1817年]]には、長年の憧れの作家[[ウォルター・スコット]]と人を介して会うことが叶い、スコット邸に4日間滞在。スコットとの会話をきっかけに、執筆を本格化し、[[1818年]]には、アーヴイングを一躍有名にした「[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]」、「[[スリーピー・ホロウ|スリーピー・ホローの伝説]]」を含む短編集『[[スケッチ・ブック (アーヴィング)|スケッチ・ブック]]』を出版した。
 
[[1804年]]、結核の兆候が現れ、保養かたがたヨーロッパに遊び、[[1806年]]に帰国して弁護士を開業、傍ら文筆に親しんだ。
 
[[1807年]]に兄ウィリアムとジェイムズ・カーク・ポールディング(ウィリアムの義弟)とともに、ユーモアやパロディを交えて社会情勢を語る雑誌『サルマガンディ』''”Salmagandi”''を発行。
 
[[1809年]]には、最初の自著『ニューヨークの歴史』を上梓。同時期に、17歳の恋人を亡くしている。
 
[[米英戦争]]の影響で、アーヴィング家の商売に行き詰りが生じ、イギリスで貿易商をしていた兄を手伝うために[[1815年]]に渡英。兄が病気になり破産したため、家計を助けるため執筆に励み、以後17年間をヨーロッパで過ごす。
 
[[1807年]]に兄や友人らとともに、ユーモアやパロディを交えて社会情勢を語る雑誌『サルマガンディ』を発行。[[1809年]]には、最初の自著『ニューヨークの歴史』を上梓。同時期に、17歳の恋人を亡くしている。[[米英戦争]]の影響で、アーヴィング家の商売に行き詰りが生じ、イギリスで貿易商をしていた兄を手伝うために[[1815年]]に渡英。兄が病気になり破産したため、家計を助けるため執筆に励み、以後17年間をヨーロッパで過ごす。[[1817年]]には、長年の憧れの作家[[ウォルター・スコット]]と人を介して会うことが叶い、スコット邸に4日間滞在。スコットとの会話をきっかけに、執筆を本格化し、[[1818年]]には、アーヴングを一躍有名にした「[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]」、「[[スリーピー・ホロウ|スリーピー・ホローの伝説]]」を含む短編集『[[スケッチ・ブック (アーヴィング)|スケッチ・ブック]]』を出版した。
 
[[法律家]]でもあったアーヴィングは、アメリカの対[[イギリス]]・[[スペイン]]外交官のメンバーであった。アーヴィングは[[スペイン語]]が流暢だったため、スペインに関する彼の著書は素晴らしいものとなった。また、[[ドイツ語]]や[[オランダ語]]など、ほかにもいくつかの言語を読むことができた。アーヴィングは多作で、多くの場で尊重されている[[ジョージ・ワシントン]]や[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]といった人物の伝記や、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]、[[ムーア人]]、[[アルハンブラ宮殿]]など[[15世紀]]スペインに関する多くの本を書いた。
 
アーヴィングは[[18301832代]]アメリカに帰国すると西部の[[フロンティア]]を旅し、西部の民族に関して一瞥したところを『プレーリーの旅 ''A Tour on the Prairies''』(1835年)に記した。彼は、[[ヨーロッパ人]]やアメリカ人と[[アメリカ州の先住民族|ネイティブアメリカン]]民族との関係を悪化させることに反対する以下のような発言をしたことで知られている:
 
:植民時代の初期には、白人達のために二重に中傷された数多くの不幸な先住民がいた。彼らは金目当てで頻繁に起こされた理不尽な戦いによって先祖代々の領土を追い出され、さらには彼らの人柄も、頑迷で不純な作家達によって中傷されたのである。
 
1836年に、アーヴィングの有名な自宅ニューヨーク郊外のハドソン川沿いの町タリータウンに屋敷を構え「サニーサイド」と名付けた。[[:en:Sunnyside (Tarrytown, New York)|Sunnyside]])にあり、この屋敷は現在も[[ニューヨーク]]の[[タッパン・ジー・ブリッジ]]のすぐ南に建っている。)以降、スペイン大使を務めた1842~1846年を除き、その地で過ごし、遺作となった『ジョージ・ワシントンの生涯』''”Life of George Washington”''(1855-59)の執筆に専念した。

この家と周囲の土地はもともと[[18世紀]]の入植者ウォルファート・アッカー([[:en:Worlfert Acker|Worlfert Acker]])が所有しており、アーヴィングは彼についての短編『ウォルファートのねぐら ''Wolfert's Roost''』を書いている。また、[[マシュー・ペリー]]提督とも隣同士で交友があり、ペリーのことをJapanned(日本かぶれ)と呼んでいた<ref>[http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/728/1/rb-kn_037_004.pdf  ワシントン・アービングと日本]</ref>。
 
[[テキサス州]]の都市[[アービング (テキサス州)|アーヴィング]]や、[[アラバマ州]][[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]のワシントン通り(Washington Street)とアーヴィング通り(Irving Street)は、彼の名にちなんで名付けられたと信じられている。また彼の著書『ブレイスブリッジ・ホール ''Bracebridge Hall''』は、[[オンタリオ州]][[ブレイスブリッジ]]の名の着想となった。
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== 作品の評価 ==
彼の作品中には、同時代の出来事がほとんど反映されていないが、そのかわりに、ロマンティックな過去が、新鮮な、独創的な筆で、多分のユーモアと、上品な皮肉を織り交ぜられて、香気と色彩を以て描かれている。
 
* 彼の作品中には、同時代の出来事がほとんど反映されていないが、そのかわりに、ロマンティックな過去が、新鮮な、独創的な筆で、多分のユーモアと、上品な皮肉を織り交ぜられて、香気と色彩を以て描かれている。
近代短篇小説の発達に多くの貢献をした一人であった。
 
* 近代短篇小説の発達に多くの貢献をした一人であった。
== 伝記 ==
*『ワシントン・アーヴィングの生涯』 スタンリー・T・ウィリアムズ著、1935年(英語)
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*『大百科事典』([[平凡社]]、1931-35年) 著作権保護期間満了
* {{Cite book|和書 |author = [[谷克二]] |year = 2004 |title = アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語 |publisher = 日経BP企画 |isbn = 978-4-86130-005-9 |ref={{SfnRef|『アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語』|2004}}}}
*若林麻希子「ワシントン・アーヴィング」『アメリカ文学入門』責任編集 [[諏訪部浩一]]、三修社、2013年。
 
== 外部リンク ==