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'''蕭順之'''(しょう じゅんし、生没年不詳)は、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の[[宗室]]・[[軍人]]。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の武帝[[蕭衍]]の父にあたる。[[字]]は文緯<ref name="nanshi6">『[[南史]]』巻6</ref>。
 
== 経歴 ==
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[[477年]](昇明元年)、[[袁粲]]が[[沈攸之]]の乱に呼応して[[石頭城]]に拠り、[[黄回]]が反乱側について石頭城に向かうと、順之は家兵を率いて朱雀橋を守り、これをはばんだ<ref name="nanshi6"/>。さらに輔国将軍・驍騎将軍として水軍を率いて沈攸之の乱鎮圧にあたった<ref>『南斉書』巻24</ref>。
 
[[斉 (南朝)|南朝斉]]の建国に功績を挙げ、豫章王[[蕭嶷]]に代わって[[揚州 (古代)|揚州]]刺史に任じられた<ref name="nanshi6"/>。[[482年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]4年)、[[武帝 (南朝斉)|武帝]]が即位すると、臨湘県侯に封じられた<ref name="nanshi6"/>。[[侍中]]・[[衛尉]]を歴任した<ref name="ryousho1"/><ref name="nanshi6"/>。7月、[[豫州]]刺史となった<ref name="nansei3">『南斉書』巻3</ref>。後に太子詹事に転じた<ref name="ryousho1"/><ref name="nanshi6"/>。[[485年]]([[永明]]3年)、領軍将軍の号を受けた<ref name="nansei3"/>。後に丹陽尹となった<ref name="ryousho1"/><ref name="nanshi6"/>。[[490年]](永明8年)、[[荊州]]刺史の巴東王[[蕭子響]]が反乱を起こすと、順之は反乱の鎮圧に赴き、蕭子響を降伏させた<ref name="nansei3"/><ref>『南斉書』巻40</ref><ref>『南史』巻4</ref><ref>『南史』巻44</ref><ref>『魏書』巻98</ref>。
 
後に死去すると、鎮北将軍の位を追贈され<ref name="ryousho1"/><ref name="nanshi6"/>、[[諡]]を懿といった<ref name="nanshi6"/>。[[502年]]([[天監]]元年)、南朝梁が建国されると、文皇帝と追尊され、[[廟号]]を太祖といった<ref>『梁書』巻2</ref><ref name="nanshi6"/>。
 
== 妻子 ==
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*[[蕭恢]]
=== 女子 ===
*義興昭長公主 蕭令嫕
*新安穆公主
*余姚公主