「陶邑窯跡群」の版間の差分

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陶邑の名称は、[[崇神天皇]]の時、[[倭迹迹日百襲媛命]]が[[神懸り]]して受けた[[託宣]]により茅渟県の陶邑において[[大田田根子]]を探し出し、[[大和]][[三輪山]]の神、[[大物主]]を祭る[[神主]](三輪山の麓にある[[大神神社]]の始まりとされる。実は大田田根子は、大物主が人間の娘、生玉依媛のもとに通って産ませた隠し子であったとする)とし、それまで続いていた疫病や災害を鎮めたとする[[日本書紀]]の記述に基づく。この窯業生産地全体を指す呼称ではないのはもちろん、同時代にそのように呼称されていたのではない、後世つけられた呼称であるのは言うまでもない。
 
陶邑窯一帯の生産は、[[7世紀]]以降衰退が始まる。衰退の原因の一つは、燃料となる[[森林]]資源を消費しつくしたためと考えられている。少なくなりつつある燃料材をめぐる争いは、『[[日本三代実録]]』の中で「[[陶山の薪争い]]」として記録されている<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html 陶邑窯跡群-泉北丘陵周辺の遺跡と古墳] 堺市ホームページ 2017年12月1日閲覧</ref>ほか、時代が経るにつれ使用される[[木炭]]の樹種が、更新可能な[[広葉樹]]から荒廃地でも生育する[[アカマツ]]に変化していることからも裏付けられている<ref>太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年</ref>。
 
==初期須恵器窯と畿内政権(ヤマト王権)==
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なお、陶邑窯の編年の基準となった出土資料の一部は泉北ニュータウン内にある[[堺市立泉北すえむら資料館]](旧大阪府立泉北考古資料館)に収蔵、展示されていたが、[[2016年]](平成28年)[[9月]]末を持って閉館したため、[[堺市博物館]]で保管されている。
 
==陶邑窯の衰退==
陶邑窯一帯の生産は、[[7世紀]]以降衰退が始まり、9世紀の後半頃に廃絶してしまう。衰退の原因の一つは、燃料となる[[森林]]資源を消費しつくしたためと考えられている。これは、時代が経るにつれ使用される[[木炭]]の樹種が、更新可能な[[広葉樹]]から荒廃地でも生育する[[アカマツ]]([[二次林]])に変化していることからも裏付けられている<ref>西田 1976 pp.178~187</ref><ref>中村 2006 pp.88</ref><ref>太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年</ref>。少なくなりつつある燃料材をめぐる争いは『[[日本三代実録]]』の中で[[859年]]([[天安 (日本)|天安]]3年/[[貞観 (日本)|貞観]]元年)に起きた「[[陶山の薪争い]]」として記録されている<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html 陶邑窯跡群-泉北丘陵周辺の遺跡と古墳] 堺市ホームページ 2017年12月1日閲覧</ref>ほか、時代が経るにつれ使用される[[木炭]]の樹種が、更新可能な[[広葉樹]]から荒廃地でも生育する[[アカマツ]]に変化していることからも裏付けられている<ref>太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年</ref>。
 
== 文化財 ==
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*森浩一「和泉河内窯出土の須恵器編年」『世界陶磁全集』第1巻 [[河出書房]] 1958年
*田辺昭三 他 『陶邑古窯址群I』 平安学園考古学クラブ 1966年
*森浩一「第三節 生産の発展とその技術」『大阪府史 第一巻』 大阪府史編集専門委員会 1978年 768頁ー782頁
*田辺昭三 『須恵器大成』 [[角川書店]] 1981年
*『陶邑I』 - 『陶邑VIII』大阪府教育委員会 大阪文化財センター 1976年 - 1995年
*[[西田正規]] 「和泉陶邑と木炭の分析」『陶邑 I』(大阪府文化財報告書28)大阪府 1976年 pp.178~187
*森浩一「第三節 生産の発展とその技術」『大阪府史 第一巻』 大阪府史編集専門委員会 1978年 768頁ー782頁
*『陶邑 ・大庭寺遺跡IV』 大阪府教育委員会 財団法人大阪府埋蔵文化財協会 1995年
*『陶邑 ・大庭寺遺跡V』 大阪府教育委員会 財団法人大阪府文化財調査研究センター 1996年