「日本のキリスト教史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
100行目:
しかし[[1612年]]に[[岡本大八事件]]([[有馬晴信]]がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらも[[キリシタン]]であったことから、家康はそれまでの態度を一転して[[大名|諸大名]]と[[幕臣]]へのキリスト教の禁止を通達、[[原主水]]などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近[[以心崇伝]]の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。[[1616年]]に徳川家康が亡くなると、「東照大権現」とされて神として祀られたこともキリスト教禁止に影響を与えたとする見方もある<ref>山口和夫「寛永のキリスト教禁制と朝廷・幕府」『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P131</ref>。[[1619年]]に京都で52名が殉教し、[[1622年]]に長崎で55名が殉教([[元和の大殉教]])、[[1623年]]江戸でも55名が殉教した。以後、禁教令の解除まで約250年の間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。
 
ただ、禁令の徹底は地方によって異なり、例えば[[松前藩]]などは、幕府に対して「領内にはキリシタンはなし」と報告していたものの、実際には取り締まりは緩く、多くのキリシタンが[[本州]]から逃れてきていた。松前藩のこの姿勢は、[[1637年]]に[[島原の乱]]が起きてキリスト教禁止の命令が徹底されるまで続いた<ref name="hokkaidou_fukushima_outdoor">{{Cite web |date= |url=http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/outdoor/kirisi.htm |title=エゾキリシタンの秘められた悲劇 |publisher=[[北海道]][[福島町]] |accessdate=2013-08-22 |archiveurl=http://archive.ph/kSL4i|archivedate=2013-8-22|deadlinkdate=2019-12-28}}</ref>。
 
一方、[[神仏習合]]・[[多神教]]の宗教的秩序の上にあり、[[天皇]]・院([[太上天皇]])自らが[[神道]]の祭祀を主宰し、[[仏教]]の祈祷を実修し続けてきた[[朝廷]]にとって、[[一神教]]のキリスト教は早くから警戒され、排除が試みられる対象であった。キリスト教禁止は[[江戸幕府]]と[[朝廷]]が連携・協同して取り組める方針で朝幕関係にとっても望ましかった<ref>山口和夫「神仏習合と近世天皇の祭祀」(初出:島薗進 他編『シリーズ日本人と宗教1 将軍と天皇』(春秋社、2014年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P336</ref><ref>山口和夫「寛永のキリスト教禁制と朝廷・幕府」『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P144</ref>。