「天保の大飢饉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
曖昧さ回避ページへのリンクの除去
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
8行目:
 
一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。たとえば[[田原藩]]では、[[家老]]の[[渡辺崋山]]が師であった[[佐藤信淵]]の思想をもとにした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきことと説き、給与改革や[[義倉]]の整備を実行して成果をあげた。また[[米沢藩]]でも[[天明の大飢饉]]の教訓を生かして義倉の整備や「[[かてもの]]」という[[救荒食]]の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。
 
当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で125万2000人減少しており(後述の参考資料参照)、人口減少幅の規模としては[[天明の大飢饉]]に匹敵する。
 
== 大飢饉の名残 ==