「寿々喜多呂九平」の版間の差分

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[[1923年]](大正12年)[[6月1日]]の「[[マキノ映画製作所]]」設立の翌月には、牧野・[[金森万象]]共同監督による[[市川幡谷]]主演作品『紫頭巾浮世絵師』で、脚本家としてデビューした。阪東が初めて主演に抜擢された寿々喜多脚本第2作『鮮血の手型 前篇・後篇』(監督[[沼田紅緑]]、同年10月17日前篇、同26日後篇公開)をはじめ、同社でわずか1年の間に24作の脚本を量産した。寿々喜多のニヒリスティックな脚本は、従来の剣戟俳優との違いを明確にし、阪東を一躍スターにした<ref name="寿々喜多">『日本映画監督全集』([[キネマ旬報社]]、1976年)の「寿々喜多呂九平」の項(p.223-224)を参照。同項執筆は[[岸松雄]]。</ref>。
 
マキノ映画製作所が[[東亜キネマ]]と合併しても同社の「等持院撮影所」で、[[マキノ・プロダクション]]として再独立しても同社の「御室撮影所」で、牧野省三のもとで実に56本もの脚本を書きまくっていたが、[[1929年]](昭和4年)[[7月25日]]に牧野が死去すると、翌[[1930年]](昭和5年)、[[帝国キネマ|帝国キネマ演芸]]に移籍、映画監督に転向する。監督デビュー作は[[松本泰輔]]主演の無声映画『水戸黄門 遍歴奇譚』で、同年10月24日に浅草「常磐座」等で公開された。翌[[1931年]](昭和6年)、帝国キネマが[[新興キネマ]]に改組されてからも含めて、[[1939年]](昭和14年)までに34本を監督したが、[[1940年]](昭和15年)[[7月25日]]に公開された[[大友柳太郎]]主演の『花婿五千石』からは本名の神脇榮満(えいみつ)に似た「神脇満」名で翌[[1941年]](昭和16年)までに3本を監督した<ref name="jmdb">[[#外部リンク]]の日本映画データベースの当該ページを参照。</ref>。
 
[[1942年]](昭和17年)の戦時統合で新興キネマが[[大映]]となり、[[1945年]]に終戦を迎え、しばらく消息がわからなくなるが、[[1946年]](昭和21年)に公開された、[[京都映画社]]製作の短篇アニメ映画『魔法のペン』で脚本家として復活している。また[[1949年]](昭和24年)、[[マキノ雅弘]]らの製作プロダクション「[[CAC]]」が製作、[[東宝]]が配給した阪東妻三郎の主演映画『佐平次捕物帳 紫頭巾 前篇・後篇』で「原作」としてクレジットされている<ref name="jmdb" />。