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[[王莽]]の末年、兄の淳于崇が反乱兵に連れ去られそうになり、淳于恭が身代わりになることを申し出ると、二人とも放免された。後に淳于崇が死去すると、淳于恭は亡き兄の幼い孤児を養い、学問を教えた。反乱が横行して、農民が耕作を放棄する時勢にあって、淳于恭はひとり農耕にいそしんだ。後に州郡から召命があったが、応じなかった。[[建武 (漢)|建武]]年間、郡に[[孝廉]]として察挙され、[[司空]]府に召し出されたが、いずれも応じなかった。[[琅邪郡]]の黔陬山に数十年間隠れ住んだ。
 
[[76年]]([[建初 (漢)|建初]]元年)、[[章帝 (漢)|章帝]]‎に召し出され、議郎に任じられた。[[侍中]]・[[騎都尉]]に転じ、礼遇優待された。かれの推挙した名賢はみな召し出されて任用された。[[80年]](建初5年)、病が重くなり、在官のまま死去した。
 
子の淳于孝は太子舎人となった。
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{{DEFAULTSORT:しゆんう きよう}}
[[Category:漢代の人物]]
[[Category:1世紀生]]
[[Category:80年没]]