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{{Otheruses||くじ引き|くじ}}
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<!-- 人物情報 -->
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|生年月日 = [[紀元前552年]]
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{{儒教}}
{{中華圏の事物
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|ラテン字= K'ung<sup>3</sup>-tzu<sup>3</sup>
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[[画像:Konfuzius.jpg|thumb|孔夫子の像]]
 
'''孔子'''(こうし、くじ、{{ピン音zh2 |p=Kǒng zǐ |w=K'ung-tzu }}、{{lang-ko-short|공자}}〈{{unicode|gongja}}〉、[[チベット語|蔵]]: {{bo|t=ཁུང་ཙི།|z=|w=kong rtse}};{{fontsize|small|[コンツェ]}}{{Sfn|津曲|2013|p=1156}}、[[紀元前552年]][[9月28日]]‐[[紀元前479年]][[3月9日]])は、[[春秋時代]]の[[中国]]の[[思想家]]、[[哲学者]]。[[儒家]]の始祖。<!--([[宋 (春秋)|宋]]公室の支流を称する系図が真実ならば)[[姓]]は子、-->[[氏 (中国)|氏]]は孔、[[諱]]は丘、[[字]]は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。[[ヨーロッパ]]では[[ラテン語]]化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は[[漢音]]、「くじ」は[[呉音]]。釈迦、キリスト、マホメットと並び四聖人に数えられる。その死後約四百年かけて弟子達が編纂したのが『論語』である。
 
有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の[[都市国家]]の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった[[周]]末、[[魯]]国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、儒家となって[[諸子百家]]の一家をなした。孔子の死後約四百年かけて編纂した弟子たちの語録は『[[論語]]』にまとめられた。
孔子は四聖人の一人で、釈迦、キリスト、孔子、マホメット、以上の四人の一人である。
有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の[[都市国家]]の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった[[周]]末、[[魯]]国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、儒家となって[[諸子百家]]の一家をなした。孔子の死後約四百年かけて編纂した弟子たちの言語録は『[[論語]]』にまとめられた。
 
約30003500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として[[七十子]]がいた<ref>『[[史記]]』孔子世家</ref>。そのうち特に優れた高弟は[[孔門哲]]と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている(そのため、四科十哲とも呼ばれる)。すなわち、徳行(論語古義によると徳行は、言語・政事・文学の三者を兼ねる)に[[顔回]]・[[閔子騫]]・[[冉伯牛]]・[[仲弓]]、言語に[[宰我]]・[[子貢]]、政事に[[冉有]]・[[子路]]、文学(学問のこと)に[[子游]]・[[子夏]]である。(その中でも子路と孔子のやり取りが論語のなかでは1番多い。)その他、[[孝]]の実践で知られ、『[[孝経]]』の作者とされる[[曾参]](曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『[[中庸]]』の作者とされる[[子思]]がいる。
 
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で[[孟子|孟軻]](孟子)は[[性善説]]を唱え、孔子が最高の徳目とした[[仁]]に加え、実践が可能とされる徳目[[義]]の思想を主張し、[[荀子|荀況]](荀子)は[[性悪説]]を唱えて[[礼]]治主義を主張した。『[[詩経|詩]]』『[[書経|書]]』『[[儀礼|礼]]』『[[楽経|楽]]』『[[易経|易]]』『[[春秋]]』といった[[周]]の書物を[[六経]]として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『[[礼記]]』や『易伝』『[[春秋左氏伝]]』『[[春秋公羊伝]]』『[[春秋穀梁伝]]』といった注釈書や論文集である[[伝]]が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、[[孟子]]・[[荀子]]といった後継者を出したが、[[戦国時代 (中国)|戦国]]から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし[[前漢]]・[[後漢]]を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。
 
20世紀、1910年代の[[新文化運動]]では、[[民主主義]]と[[科学]]を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』などで展開され、1949年に成立した[[中華人民共和国]]では、1960年代後半から1970年代前半の[[文化大革命]]において毛沢東とその部下達は[[批林批孔運動]]という孔子と[[林彪]]を結びつけて批判する運動を展開<ref>http://www.afpbb.com/articles/-/2215012 「再び脚光浴びる「孔子の教え」 - 中国」AFPBB 2007年04月22日 2015年11月2日閲覧</ref>。孔子は[[封建主義]]を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党[[新儒教主義]]また[[儒教社会主義]]を提唱し([[儒教]]参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されはじめている([[孔子鳥儒教]]、[[孔子学院]]を参照)
 
== 時代背景 ==
=== 周公旦と礼学 ===
孔子の生まれた魯([[紀元前1055年]] - [[紀元前249年]])は、[[周公旦]]を開祖とする[[諸侯]]王朝で、周公旦は周王室の有力者で[[]]王朝滅ぼし開いた[[武王 (周)|武王]]の弟とされである。周公旦は、[[武王 (周)|武王]]の子である[[成王 (周)|成王]]を補佐し、克殷建国直後の周を安定させたと伝えられている。周公旦は、征服地の山東半島の曲阜に[[封建|封じられ]]諸侯のひとり魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の[[伯禽]]に赴かせてその支配を委ね、自らは[[関]]の[[鎬京]]と[[華北平原]]への出口を扼する[[洛陽]]を拠点とする周本国[[朝]]に当たっていた。
 
周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、[[礼学]]の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『[[周礼]]』『[[儀礼 (経書)|儀礼]]』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の[[聖人]]と崇めた。論語の伝えるところによれば孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。
 
魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存され残っていた<ref>「孔子 中国の知的源流」p21 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷</ref>。この古い礼制をまとめ上げ、[[儒教]]として後代に伝えていったのが、'''[[孔子''']]一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。
 
=== 魯国の状況 ===
春秋時代に入ってからの魯国は、[[晋 (春秋)|晋]]・[[斉 (春秋)|斉]]・[[楚 (春秋)|楚]]といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である[[三桓氏]]が政治の実権を握り、[[寡頭政治]]を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代[[君主]][[桓公 (魯)|桓公]]の子に生まれた3兄弟の[[慶父]]・[[叔牙]]・[[季友]]は第16代[[荘公 (魯)|荘公]]の[[重臣]]となり、慶父から'''孟孫氏'''('''仲孫氏''')、叔牙から'''叔孫氏'''、季友から'''季孫氏'''に分かれ代々[[魯]]の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々[[司徒]]の役職に就き、叔孫氏が[[大司馬|司馬]]、孟孫氏(仲孫氏)が[[司空]]を務めた。
 
孔子の生まれた当時は[[襄公 (魯)|襄公]]([[紀元前572年]]-[[紀元前542年]])の時代であった。[[紀元前562年]]には季孫氏の[[季孫宿]](季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる <ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,42-3頁</ref>。
 
== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[紀元前552年]](一説には551年)に、[[魯]]国昌平[[]]辺境の鄹邑([[、すうゆう)]]、現在の[[山東省]][[曲阜市|曲阜]](きょくふ)邑[[大夫]]の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた[[叔梁コツ|叔梁紇]](しゅくりょうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった[[顔徴在]](がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い[[孟孫氏]]に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,43頁</ref>。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,57頁</ref>。また『[[史記]]』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,51頁</ref>。このよういずれしても、出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。[[貝塚茂樹]]は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,52頁</ref>。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている<ref>『[[論語]]』子罕編。貝塚、62頁。</ref>。
 
『史記』によれば、孔子の祖先は[[宋 (春秋)|宋]]の人であるという。『[[孔子家語]]』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の[[レイ公 (宋)|厲公]]の兄である弗父何の十代後の子孫であり、孔子の曾祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。
 
孔子は3歳の時に父の叔梁紇幼くして両親失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも勉強に励んで苦学して[[礼学]]を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、[[葬式]]ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・[[周公旦]]を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、[[老子]]に師事して教えを受けたという説もある。
 
弟子の[[子貢]]はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,66頁</ref>、孔子は地方の小学に学び、地方の[[郷党]]に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で[[独学]]であった<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年</ref>。
 
孔子の生活は、明るく楽しいものではなかった。姉もたくさんいて、足の不自由な兄もいる。父は、孔子が3歳の時に亡くなった。、母は17歳の時に亡くなってから、それまでの生活な、母の仕事によって成り立っていたのだろう <ref>[[江連隆]]『論語と孔子の事典』[[大修館書店]]、1996年</ref>。
 
父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、特に母は心配だった。そこで、[[祈禱師]]でもある母は「尼丘に禱り、孔子を得たり」近くの[[尼五山|尼丘山]]にいのって、孔子をさずかることができた。魯国の襄公22年9月28日とされている。ただし、生年には諸説があり、『[[春秋公羊伝]]』は「襄公21年10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月5日の後に生まる」とする。また『史記集解索隠正義礼記』は、周の正月は11月なので、『[[史記]]』の22年は実際は21年になる、という。その他、限りなく諸説が展開し、宋の[[王応麟]]は、もはや考えるすべもないと嘆息している。新しいところでは、張培瑜が「孔子生卒的中暦和公暦日期」において、従来の諸説を概観した結果、魯の襄公22年10月27日庚子、現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当だろう、と述べている。誕生にまつわる話で孔子が生まれる夜、天から二頭の蒼龍が母の部屋の上に降りてきて、母は夢の中に孔子を産んだ。また、2人の神女が空中から香露を擎げて降りてきて、母に沐浴させた。[[天帝]]も、鈞天の楽を奏しながら部屋の上に降りてきた。空中に「天が聖なる子を産むので、地で音楽の枠を奏するのである」という声が聞こえた。五人の老人が庭に立った。これは、五つの星の精である。五つの星は、[[五行説]]にいう木、火、土、金、水の五行の精。それぞれ、木精、火精、土精、金精、水精をさす。さて孔子が生まれる前に、麒麟が村に現れて玉書を吐き出した。そこには「水精の子が、哀えている周王朝を継いで、素王ー王位に就かず、王者の徳を備えている人になるだろう」とあった。水精は五行の循環によって歴史が展開するという考えに基づく。周王朝は火の徳に当たるので、それを継ぐのは水の徳ということになる。孔子の母は、繡紱を麒麟の角にかけてやった。麒麟は、孔子の家に二泊してから去っていった。原形は、晋、[[王嘉]]著の『王子年拾遺記』巻3に見られる。王嘉は、[[隠遁]]生活を続けて穴居生活をし、俗世と交わらず、五穀を食べず門弟数百人を擁したという。よか未来を予言し、のち[[長安]]に出て[[終南山|終南山に]]住んだ。別に、これは梁の[[蕭紀]]の著で、名を王嘉に託したものという<ref name=":0" />。
 
=== 青年期 ===
[[紀元前542年]]6月、魯の襄公が薨去すると、太子の[[魯公野]]が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が[[昭公 (魯)|昭公]](?-[[紀元前510年]])として君主に即位した。
 
[[紀元前537年]]に魯の軍事を独占していた季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに[[三桓氏]]が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の[[紀元前538年]]に15歳の孔丘が学に志している。
 
[[紀元前534年]]、孔子19歳のときに宋の[[幵官氏|幵官(けんかん) 氏]]と結婚する<ref>「家語」</ref>。翌年、子の[[孔鯉|]](り) (字は伯魚)が誕生。
 
[[紀元前525年]]、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず[[倉庫]]を管理する委吏次に[[牧場]]を管理する乗田となった<ref>「孟子」「史記」</ref>。[[紀元前518年]]には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている<ref>「図説孔子 生涯と思想」p275 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷</ref>。またこの年、孔子は周の都である[[洛陽]]へと遊学している
 
[[紀元前517年]]、孔子が36歳のときに第23代君主[[昭公 (魯)|昭公]]による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,146頁</ref>。同年9月、[[昭公 (魯)|昭公]]が季孫氏の[[季孫意如]]を攻めるが、クーデターは失敗し、[[斉 (春秋)|斉]]へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。魯に帰国した途上で「苛政虎より翌年と猛なり」の故事が起こった<ref>「図説孔子 生涯7年後思想」p30 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷</ref>もいわれるこの間、魯は[[紀元前509年]]に[[定公 (魯)|定公]]が第24代君主に就任するまで空位時代であった。孔子は斉の首都[[臨シ|臨淄]]で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける
 
[[紀元前505年]]、[[季孫氏]]当主の[[季孫斯]](季桓子)に仕えていた[[陽虎]](陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった<ref>[[論語]] 陽貨第十七</ref>。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は[[紀元前502年]]に[[叔孫氏]]・[[孟孫氏]](仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である[[斉 (春秋)|斉]]に追放され、その後、[[宋 (春秋)|宋]]・[[晋 (春秋)|晋]]を転々とし、[[紀元前501年]]に晋の趙鞅に召抱えられた
[[紀元前516年]]、斉の[[景公 (斉)|景公]]が孔子を召し出そうとしたが、宰相の[[晏嬰]]がこれを阻んだ。また、孔子は[[斉 (春秋)|斉]]の首都[[臨シ|臨淄]]で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。[[紀元前517年]]、孔子は魯へと戻った<ref>「図説孔子 生涯と思想」p276 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷</ref>。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。
 
[[紀元前505年]]、[[季孫氏]]当主の[[季孫斯]](季桓子)に仕えていた[[陽虎]](陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった<ref>[[論語]] 陽貨第十七</ref>。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。
 
[[紀元前502年]]に陽虎は[[叔孫氏]]・[[孟孫氏]](仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、[[宋 (春秋)|宋]]・[[晋 (春秋)|晋]]を転々とし、[[紀元前501年]]に晋の趙鞅に召抱えられた。
 
孔子についても、ほとんど分かっていない。母の仕事の影響をうけて、文字を知り、礼法を知り、そして知識によって生きていこうと決心して、まず村の役人になることができた。しかしその礼法は、あくまで祈禱師としてのそれであり、社会全般、まして国家としてのそれではない。おそらく、天下に通ずる礼、伝統的に守り続けられてきた礼法を学ぶ為に、必死になって各地を訪れ、知識人に会っては、自分なりに整理し、体系付けていった。この努力が、孔子の基礎を作った。<ref name=":0">[[江連隆]]『論語と孔子の事典』[[大修館書店]]、1996年</ref>
 
=== 大司寇時代 ===
[[紀元前501年]]、孔子52歳のとき[[定公 (魯)|定公]]によって中都の宰に取り立てられた<ref>『史記』孔子世家</ref>。その翌年の[[紀元前500年]]春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な相[[晏嬰|晏子]]による計略で、それを孔子が見破ったといわれる<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,171頁</ref>。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った<ref>『史記』孔子世家、左伝</ref>。この功績で孔子は最高裁判官である[[大司寇]]に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,171頁</ref>。
 
紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する<ref>弟子が少正卯についた話は[[後漢]]の[[王充]]『[[論衡]]』講瑞篇に初めて見え、また孔子が少正卯を殺した話は『[[荀子]]』宥坐篇に初めて現れ、それ以前の文献には記さない。したがって、いずれも後世の創作の可能性がある</ref>。
 
[[紀元前498年]]、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた[[子路]]を季氏に推薦したうえで、三桓氏のの城壁する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった<ref>[[貝塚茂樹]]『孔子』[[岩波新書]]、1951年,173頁</ref>。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って[[下剋上]]を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した<ref>「孔子 中国の知的源流」p45-46 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷</ref>。
 
=== 亡命から晩年まで ===
翌年の[[紀元前497年]]に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのは[[衛]]であり、ここ5年ほど滞在した。ついで[[紀元前493年]]、いったん[[晋 (春秋)|晋]]に向かったが衛にいったん戻り、[[曹 (春秋)|曹]]へ向かおうとして[[宋 (春秋)|宋]]で妨害されたために[[鄭]]へと逃れ赴き、ついで[[陳 (春秋)|陳]]に赴き、いったん[[蔡]]に向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。[[紀元前489年]]、孔子は[[楚 (春秋)|楚]]に向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた
 
[[紀元前494年]]には魯で[[哀公 (魯)|哀公]]が第27代君主に就任する。[[紀元前487年|前487年]]に魯は隣国の[[呉 (春秋)|呉]]に攻められるも奮戦し、[[和解]]した。その後[[ (春秋)|斉]]に攻められ敗北した。[[紀元前485年|前485年]]には呉と共に同じく斉へ攻め込み大勝した。翌年の[[紀元前484年|前484年]]にはまた斉に攻められた。
 
[[紀元前484年]]、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。
 
翌[[紀元前483年|前483年]]、孔子は斉の[[簡公 (斉)|簡公]]を討伐するように[[孔子]]が[[哀公 (魯)|哀公]]に進軍を勧めるが実現しなかった。その3年後の[[紀元前481年|前481年]]、斉の簡公が宰相の[[田恒]]([[陳恒]])に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。『論語』の憲問編にて「大夫の末席に連なる以上、(聞き入れて貰えないのは分かっていても)言わざるを得なかった」と嘆いたと記すのはこの時のことである
 
孔子の作と伝えられる歴史書『[[春秋]]』は哀公14年([[紀元前481年]])に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、[[叔孫氏]]に仕える御者が、[[麒麟]]を捉えたという記事([[獲麟]])で終了する。このことから後の儒学者は、'''[[孔子''']]は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで[[紀元前480年]]には衛に仕えていた子路も殺された。
 
[[紀元前479年]]に孔子は74歳で没し曲阜の城北の[[泗河|泗水]]のほとりに葬られた。[[前漢]]の史家[[司馬遷]]は、その功績を王に値すると評価し、「[[孔子世家]]」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子[[列伝]]」を著した。[[儒教]]では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
 
=== 孔子死後の魯 ===
孔子の死後、[[紀元前471年|前471年]]に哀公は[[晋 (春秋)|晋]]と同じく斉へ[[指揮官]]として進軍する。さらに[[紀元前468年|前468年]]に[[三桓氏の武力討伐]]に[[反乱]]試みる起こすも三桓氏に屈し、[[衛]][[鄒城市|鄒]]を転と点々とした後に身を置き、[[越]]国外追放され[[紀元前467年|前467年]]にその地で没した。
 
伯魚の息子で'''[[孔子''']]の孫である[[子思]]([[紀元前483年]]?-[[紀元前402年]]?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、[[曾子]]の教えを受け[[儒家]]となり、[[]]の第30代君主[[穆公 (魯)|穆公]](? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。[[孟子]]は子思の学派から[[儒学]]を学んでいる。
 
のち、国としての魯は衰退し、[[紀元前249年]]に[[楚 (春秋)|楚]]に併合され、滅亡した。
孔子はそれまでの[[シャーマニズム]]のような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの[[道徳]]・思想に昇華させた([[白川静]]説)。その根本義は「[[仁]]」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の[[祖霊信仰|祖先崇拝]]があるため、儒教は仁という人道の側面と[[礼]]という[[家父長制]]を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
 
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある<ref>吉田亮太『春秋戦国政治外交史』三恵社、2014年、P58-61</ref>。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の[[顔回]]は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の[[子路]]は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
 
[[ファイル:Confucius Statue at the Yushima SeidoConfucius2.JPGjpg|thumb|[[湯島聖堂]]にある孔子像]]
 
=== 封号 ===
容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『[[荘子 (書物)|荘子]]』外物篇)。
 
飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉の細切)の肉を細く切った物などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた<ref>[[論語]]:郷党第十八</ref>。[http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=1091&if=en#n4190]
 
== 子路の「醢」 ==
弟子の[[子路]]が[[衛]]国の大夫である[[孔リ|孔悝]]の[[荘園]]の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こり、[[子路]]は騒動にまきこまれて、殺された。子路の遺体は細かく切りきざまれ、《'''[[醢]]'''》(遺体を塩漬けにして長期間晒しものにする刑罰)にされたという挿話が『[[礼記]]』『[[孔子家語]]』『[[東周列国志]]』『[[荘子]]』などに記されている。孔子は深く悲しみ、『礼記』の記述によると、最後に家にあった「醢」(肉を塩漬けにした食品)を捨てさせたとある<ref>近年ネット上では「孔子は子路の醢を食べた」「孔子も人肉を食した」と主張する説が見られる。しかし、その根拠とされる漢文の原文には「孔子は醢を捨てさせた」とだけ記述されている。この「醢」が何の肉を塩漬にしたかは不明だが、少なくとも人肉であるという根拠は全く存在しない。まして、孔子が子路の醢を食したという記載はない。「[[黄文雄 (評論家)#中国の食人文化の主張について]]」、「[http://d.hatena.ne.jp/mujin/20060331/p1 孔子が人肉を食った?]」なども参照。桑原隲藏「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/42810_23981.html 支那人間に於ける食人肉の風習]」の子路の醢についての記述でも、孔子人肉食説は言及されていない。</ref>。
 
*『礼記』檀弓上の記述では以下の通りである。
<blockquote>檀弓上:孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰:“醢之矣。”遂命覆醢。<ref>『礼記』「檀弓上」 [http://ctext.org/liji/tan-gong-i/zh 《檀弓上》]</ref></blockquote>
*『荘子』盜跖篇の記述では以下の通りである。
<blockquote>子以甘辭說子路而使從之,使子路去其危冠,解其長劍,而受教於子,天下皆曰‘孔丘能止暴禁非’。其卒之也,子路欲殺衛君而事不成,身菹於衛東門之上,是子教之不至也。<ref>『荘子』[[盗跖|盜跖]]篇 [http://ctext.org/zhuangzi/robber-zhi/zh 《盜跖》]</ref>
</blockquote>
*『[[孔子家語]]』にも同じ逸話がある。
<blockquote>子路與子羔仕於衞。衞有蒯聵之難。孔子在魯聞之、曰、柴也其來。由也死矣。既而衛使至。曰、子路死焉。夫子哭之於中庭。有人弔者、而夫子拜之。已哭。進使者而問故。使者曰、醢之矣。遂令左右皆覆醢。曰、吾何忍食此。<ref>宇野精一訳(翻訳は[[尼子昭彦]]、[[宇野茂彦]])『孔子家語』「曲礼子夏問」[[明治書院]]、1996年10月10日、ISBN 4-625-57053-0</ref>
</blockquote>
 
== 子孫 ==
孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。
 
[[山東省]][[曲阜市]]には[[孔廟]]、[[孔林]]、そして[[孔府]](旧称・衍聖公府)がある。(いわゆる [[三孔]])。第46代[[孔宗願]]から、第77代[[孔徳成]]に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は[[中華人民共和国]]の成立に伴い、1949年に[[台湾]]へ移住している。
孔子の死後すぐに、孔子の住居は魯の哀公によって廟に作り替えられた。この廟([[孔廟]])は歴代王朝によって維持・拡張され、巨大な建築群となった。現代においては、[[北京]]の[[紫禁城]]に次ぎ、[[泰安市]]の[[岱廟]]とともに中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。また、[[泗河|泗水]]のほとりに葬られた孔子の墓である[[孔林]]も、歴代の孔子の子孫が埋葬され続けるとともに規模も拡大され、広大な墓所となった。この孔林に埋葬されている孔子の子孫の数は10万人以上ともされている<ref>http://www.cnta-osaka.jp/heritage/temple-and-cemetery-of-confucius_and-the-kong-family-mansion-in-qufu 「曲阜の孔廟、孔林、孔府」中国国家観光局大阪駐在事務所 2015年11月2日閲覧</ref>。そして宋朝期からは、孔廟と孔林を維持管理するために孔家は曲阜に邸宅をもうけ、1055年に衍聖公に封じられると維持管理の役所も兼ねるようになった。この邸宅は衍聖公府([[孔府]])と呼ばれ、これも後世になるにつれて拡張され立派なものになっていった。この3つの建築群はあわせて、[[三孔]]と呼ばれる。現在でも、[[山東省]][[曲阜市]]には[[孔廟]]、[[孔林]]、そして[[孔府]](旧称・衍聖公府)が現存している。第46代[[孔宗願]]から、第77代[[孔徳成]]に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は[[中華人民共和国]]の成立に伴い、1949年に[[台湾]]へ移住している。[[中華人民共和国]]の外交官[[孔泉]]は、孔子の76代目の子孫といわれる。
[[中華人民共和国]]の外交官[[孔泉]]は、孔子の76代目の子孫といわれる。
 
[[朝鮮]]の[[氏族]]の[[曲阜孔氏]]の始祖である<ref>{{Cite book||author=|date=|title=ネイバー知識検索 공 孔|publisher=[[斗山世界大百科事典]]|url=http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1062982&cid=200000000&categoryId=200000185&mobile}}</ref>。
 
これらの三孔の建築群は、[[1994年]]に[[ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に指定された<ref>小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p186 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8</ref>。
 
== 系譜 ==
{{main|孔子世家嫡流系図}}
 
孔子の子孫一族に伝承する家系図は「[[孔子世家譜]]」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図は[[2005年]]に[[ギネス・ワールド・レコーズ]]に「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は[[2009年]]現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代([[1621年]] - [[1627年]])、第2回と第3回は清時代([[1662年]] - [[1723年]])、([[1736年]] - [[1795年]])、第4回は中華民国時代([[1930年]] - [[1937年]])、第5回は中華人民共和国時代([[1998年]] - [[2009年]])である。第5回目の大改訂については、[[2008年]][[12月31日]]に資料収集が終了<ref name=excite20090103>[http://www.excite.co.jp/News/china/20090103/Recordchina_20090103024.html 孔子の子孫200万人超に、「孔子家系図」9月に出版―中国]、エキサイトニュース、2009年1月3日。</ref>。[[2009年]][[9月24日]]に完成した<ref name=searchina20090924>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0924&f=national_0924_013.shtml 孔子の子孫は200万人…家系図の大改訂で女性含め認定]、サーチナ、2009年9月24日。</ref>。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され<ref>[http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2352667/2655668 孔子の家系図改訂、子孫は200万人を超える]、AFP BB News、2008年2月18日。</ref>、200万人以上の収録がなされた<ref name=searchina20090924 />。
 
== 伝記(学術) ==
* [[金谷治]] 『孔子』 [[講談社学術文庫]]、ISBN 4061589350
* [[貝塚茂樹]] 『孔子』 [[岩波新書]]青版、1951年(のち改版)、ISBN 4004130441
* [[白川静]] 『孔子伝』 [[中公文庫]]、ISBN 4122041600
* [[和辻哲郎]]  『孔子』 [[岩波文庫]]、ISBN 400331445X
* [[加地伸行]] 『孔子 時を越えて新しく』  [[角川ソフィア集英社文庫]]、20161991(新訂版)、ISBN 404400045X
* [[蜂屋邦夫]] 『孔子 中国の知的源流』 [[講談社現代新書]]、1997年
* [[ハーバート・フィンガレット]]<ref>新書版とクーリルの著作以外は、初版単行本があり、和辻・貝塚・白川は著作集に所収。</ref> 『孔子 聖としての世俗者』  山本和人訳、[[平凡社ライブラリー]]、1994年
* H・G・クリール 『孔子 その人とその伝説』  [[田島道治]]訳、岩波書店、初版1961年、復刊1993年ほか
*坂口昌弘著『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森
 
== 孔子を題材にした作品 ==
[[画像ファイル:Konfuzius.jpg|thumb|孔像]]
'''小説'''
* [[下村湖人]] 『論語物語』 講談社学術文庫、ISBN 4061584936
* [[中島敦]] 『[[弟子 (小説)|弟子]]』 岩波、角川、新潮の各文庫ほか
* [[井上靖]] 『孔子』 [[新潮文庫]]、ISBN 4101063362
* [[緑川佑介]] 『孔子の一生と論語』 [[明治書院]]、新装版2007年、ISBN 462568403X
* [[三宅昭]] 『小説 論語物語』 三宅参衛監修 鶴書院、2009年
'''映画'''
* 『孔夫子([[:zh: (电影)|中国語版の教え]]』(監督:[[費穆 (映画監督)|費穆胡玫]](フー・メイ)、主演:{{仮リ[[チョウ・ユク|唐槐秋|zh|唐槐秋}}ファ]]19402009年、中国、日本未公開))
* 『[[孔子の教え]]』(監督:{{仮リンク|胡玫|zh|胡玫|label=フー・メイ}}、主演:[[チョウ・ユンファ]]、2009年、中国)
'''テレビドラマ'''
* 『[[孔子恕の人 (テレビドラマ)|-孔子伝-]]』[http://www.jyo-koushi.com/](主演:[[チュ・ガリーヤストン・チャオ]]、20112012年、中国)
* 『[[恕の人 -孔子伝-]]』(主演:[[ウィンストン・チャオ]]、2012年、中国)
'''漫画'''
* [[鄭問]] 『東周英雄伝』 [[講談社漫画文庫]]全3巻、1995年
* [[猪原賽]]原作、[[李志清]]画 『孔子と論語』 [[メディアファクトリー]]コミック全3巻、2008年
'''アニメ'''
* 『[[孔子傳]]』([[日本放送協会|NHK]]アニメーション、1995年、監督:[[出崎統]])の原作は上記『東周英雄伝』)
'''コメディ'''
* 『[[哲学者サッカー]]』 - ギリシア哲学者チームと、ドイツ近代哲学者チームが、サッカーの試合をするというコメディ。孔子は主審を務めるという設定で、「[[論語]]には[[自由意志]]が無い」と噛み付いて来た[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]に[[イエローカード]]を渡す。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{Cite journal|和書 |author=津曲真一 |title=シェンラブ伝に於ける孔子の位置 |journal=宗教研究 |volume=86 |issue=4 |year=2013 |pages=1156- |url=https://doi.org/10.20716/rsjars.86.4_1156_1 |ref={{SfnRef|津曲|2013}} }}
 
坂口昌弘著『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森
 
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|作者:孔子|孔子{{PAGENAME}}}}
{{sisterlinks|wikiquote=孔子|commons=孔子|commonscat=Confucius|d=Q4604}}
{{ウィキポータルリンク|中国|[[画像:China.svg|40px|Portal:中国]]}}
* [[論語]]
* [[儒教]]
* [[孔子鳥]]
* [[諸子百家]]
* [[万世一系]]
 
== 外部リンク ==
* [http://kanbun.info/keibu/rongo00.html Web漢文大系 - 論語]
* [http://www.snowa.de/Lunyu20060623.pdf 《論語》白文]
* [http://www.china.com.cn/photo/txt/2007-03/15/content_7961008.htm 2007年山東省曲阜で発見された孔氏族譜]
* {{SEP|confucius|Confucius}}
 
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[[Category:宗教・宗派の開祖]]
[[Category:曲阜出身の人物]]
[[Category:紀元前551年生]]
[[Category:紀元前479年没]]
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