「福山城 (備後国)」の版間の差分

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=== 福山藩の成立と築城 ===
福山城は[[江戸時代]]初期、[[元和偃武]]の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には[[赤穂城]]や[[松前城]]など福山城より後に築かれたものもあるが、[[慶長|慶長期]]から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)<ref name="jyoushi"/><ref name="senryaku"/><ref name="櫓探訪">美坂龍城『城郭建造物遺構「櫓」探訪(上)』文芸社、2001年。</ref>。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])、[[関ヶ原の戦い]]以降[[備後国]]・[[安芸国]]の2国を治めていた[[福島正則]]が[[武家諸法度]]違反により改易されたことから、 [[徳川家康]]の従兄弟である'''[[水野勝成]]''' が毛利氏など西日本の有力[[外様大名]]に対する抑え('''西国の鎮衛''')として[[備後国]]東南部と[[備中国]]西南部の計10万石を与えられ、[[大和国]]の[[郡山藩]]から転封する。入封時の領地目録上は備後[[神辺城]]主であったが、勝成の進言により[[神辺城]]はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、[[一国一城令]]が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。
 
城地は[[瀬戸内海]]との往来や[[西国街道]]との距離が考慮され[[深津郡]]野上村の'''常興寺山'''(常興寺)一帯が選定された。なお、江戸時代後期の地誌<ref name="福山志料">「福山志料」刊行会『福山志料』1910年、1968年復刻。</ref>によると現在の福山城から北西約12キロメートルにある桜山(市内[[新市町]])や南東約7キロメートルにある箕島(市内箕島町)も城地の候補として検討されたとされ、書籍等にはこの記述を採用するものも多くあるが、これ以前の資料にはそうした記述は全く確認できず、また、地理的にも桜山はあまりに内陸であり箕島は[[沼隈半島]]に隣接する完全な島(現在は埋め立てにより半島となっている)であるなど、信憑性に疑問が指摘されている<ref name="福山開祖">平井隆夫『福山開祖・水野勝成』新人物往来社、1992年。</ref>。築城に際し城地に含まれた常興寺は近郊の吉津村(現在の市内吉津町)に移転され<ref group="注">常興寺は平成時代まで築城以前に廃れていたと考えられていたが、新たな資料の発見や研究の成果により築城後も存続していたことがわかった(詳しくは[[福山 (城下町)]]も参照のこと)。</ref>、北側は東西方向に切り開き総構えの堀を兼ねた川(吉津川)が通された。干潟であった南側は干拓されて[[城下町]]が開かれ、この町は'''[[福山 (城下町)|福山]]'''と名づけられた(''藩の詳細な歴史については「[[備後福山藩]]」を参照のこと'')。