「旧川口居留地」の版間の差分

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川口には外国人貿易商に代わって[[キリスト教]]各派の[[宣教師]]が定住して[[教会堂]]を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。[[学校法人平安女学院|平安女学院]]、[[学校法人プール学院|プール学院]]、[[学校法人大阪女学院|大阪女学院]]、[[学校法人桃山学院|桃山学院]]、[[学校法人立教学院|立教学院]]、[[大阪信愛女学院]]といった[[ミッションスクール]]や[[聖バルナバ病院]]等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた[[玉造 (大阪市)|玉造]]をはじめ、現在の[[天王寺区]]や[[阿倍野区]]域に当たる[[上町台地]]へ広い敷地を求めて次々と移転して、川口は衰退への道をたどることになる。
 
1899年の居留地廃止後は大阪市へ編入され、大阪市西区川口町となった。川口雑居地には[[華僑]](その多くは[[山東省]]出身者)が進出するようになり、[[中華街|中国人街]]となった。[[1916年]]に本田三番町に中華南公所、本田二番町に中華北公所が設置され、[[1925年]]には中華北公所内に[[中華民国]]駐神戸領事大阪分事務所も設置された。昭和初期にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていた。しかし、[[日中戦争]]の激化などでその多くは帰国し、[[大阪大空襲]]で焼け野原となった。
 
戦後は華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となった。いくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の[[三井倉庫]] (現在は解体)、[[モダニズム建築]]の[[住友倉庫]]本社がある他は、往時の繁栄の面影は残っていない。本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑([[1961年]]大阪市建立)がひっそりと立っているのみである。
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*『大阪川口居留地の研究』堀田暁生・西口忠編、思文閣出版、1995年 ISBN 4-7842-0875-5
 
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[[Category:日本の外国人居留地]]
[[Category:明治時代の文化]]