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== 歴史 ==
=== 百貨店法の制約を避けるために誕生 ===
1956年(昭和31年)6月に施行の百貨店法により、[[百貨店]]が新店舗の出店や増床などに制約が課されることになったことから、その制約を受けずに事業展開を行うために同年10月10日に「東横興業株式会社」を設立したのが始まりである<ref name="tokyu-store-history-1989">『東急ストアのあゆみ』 東急ストア、1989年。</ref>。
 
当社の1号店として1956年(昭和31年)11月22日に開設された'''武蔵小杉東興店'''は<ref name="tokyu-store-history-1989" />、東横線と国鉄線の[[武蔵小杉駅]]のはす向かいにあたる[[川崎市]][[小杉町]]1丁目403番地に<ref name="tokyu-store-history-1989" />[[第一生命]]が建設した第一生命住宅の店舗部分への出店で<ref name="shogen-sengo-shogyoshi-1983-1">奥住正道 『証言・戦後商業史 流通を変えた 100人の記録』 [[日本経済新聞出版社]]、1983年1月。ISBN 978-4532093037</ref>、従前からの出店の約束を果たす側面もあるものであった<ref name="shogen-sengo-shogyoshi-1983-1" />。
1956年(昭和31年)6月に施行の百貨店法により百貨店が新店舗の出店や増床などに制約が課されることになったことから、その制約を受けずに事業展開を行うために同年10月10日に「東横興業株式会社」を設立したのが始まりである<ref name="tokyu-store-history-1989">『東急ストアのあゆみ』 東急ストア、1989年。</ref>。
 
また、同年1月に東急グループ入りしていた百貨店の[[白木屋 (デパート)|白木屋]]は、1928年(昭和3年)12月18日の五反田分店と1929年(昭和4年)2月の大森分店という戦前に開設した2分店の他に<ref name="shirokiya-300-1957-3-18">『白木屋三百年史』 [[白木屋 (デパート)|白木屋]]、1957年3月18日。</ref>、1952年(昭和27年)12月に中央線[[高円寺駅]]北口の駅ビルに開設した高円寺分店を運営していたが<ref name="shirokiya-300-1957-3-18" />、百貨店分店の形式では百貨店法の規制対象となるとして、こちらも「白木興業株式会社」を設立して3店の営業を譲渡することで規制を逃れさせることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
当社の1号店として1956年(昭和31年)11月22日に開設された武蔵小杉東興店は<ref name="tokyu-store-history-1989" />、東横線と国鉄線の武蔵小杉駅のはす向かいにあたる川崎市小杉町1丁目403番地に<ref name="tokyu-store-history-1989" />第一生命が建設した第一生命住宅の店舗部分への出店で<ref name="shogen-sengo-shogyoshi-1983-1">奥住正道 『証言・戦後商業史 流通を変えた 100人の記録』 [[日本経済新聞出版社]]、1983年1月。ISBN 978-4532093037</ref>、従前からの出店の約束を果たす側面もあるものであった<ref name="shogen-sengo-shogyoshi-1983-1" />。
 
また、同年1月に東急グループ入りしていた[[白木屋 (デパート)|白木屋]]は、1928年(昭和3年)12月18日の五反田分店と1929年(昭和4年)2月の大森分店という戦前に開設した2分店の他に<ref name="shirokiya-300-1957-3-18">『白木屋三百年史』 [[白木屋 (デパート)|白木屋]]、1957年3月18日。</ref>、1952年(昭和27年)12月に中央線[[高円寺駅]]北口の駅ビルに開設した高円寺分店を運営していたが<ref name="shirokiya-300-1957-3-18" />、百貨店分店の形式では百貨店法の規制対象となるとして、こちらも「白木興業株式会社」を設立して3店の営業を譲渡することで規制を逃れさせることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
こうして設立された2社を経営統合することになり、1957年(昭和32年)4月1日に「東横興業株式会社」が「白木興業株式会社」を吸収合併して五反田と大森、高円寺の3店の営業を引き継ぎ、チェーン店の展開へ乗り出すことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
同年9月20日より一般的で親しみ易い名称として「'''株式会社東光ストア'''」へ社名変更するとともに、社紋(シンボルマーク)も[[エーデルワイス]]をかたどったものへ変更した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
そして[[東横百貨店]](現・[[東急百貨店]]東横店)西館地下と壁一枚で隣接する[[渋谷地下街]]が開業する際には、百貨店の増床許可が出た時点で東横百貨店に変換する条件で当社が1957年(昭和32年)12月に渋谷店を出店し、契約通り1962年(昭和37年)8月東横百貨店に返還したほか、同じく東横百貨店が核店舗として出店する構想で進められていた[[東急文化会館]]の店舗部分も当社が運営する文化特選街とするなど百貨店法の制約を受けずに店舗展開を進めるという戦略を担う形で出店が進められていった<ref name="tokyu-store-history-1989" />
 
こうした設立時の経緯もあり、東横百貨店から130名、白木屋系の旧白木興業234名の社員が当社へ出向していたが、当社が軌道に乗った後、役職者と一部の専門職員を除いて百貨店へ復帰させる人事を行っており、現場は当社として採用した社員が中心となって運営する形態へ移行する形となった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
=== セルフサービス方式導入によるスーパーマーケット事業への進出 ===
設立当初は百貨店と同様の対面販売方式で、小型百貨店というべき運営形態であったが、1957年(昭和32年)2月に「スーパーマーケット設立準備委員会」を発足して八幡製鉄所購買会(現・[[スピナ]])の見学や研修会への参加などを通じて[[セルフサービス]]方式の導入へ向けた準備を進められた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
1958年(昭和33年)10月に高円寺店2階に木製ゴンドラケースによるオープン陳列を行ってセルフサービス方式を導入し、スーパーマーケット事業参入の第一歩を踏み出すことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。この高円寺店へのセルフサービス方式の導入に当たっては、生鮮食料品の販売効率が現状でも高かったうえ、当時は予め包装などを行っておくプリパッケージができない商品と考えられていたことから、1階の食料品売り場は従来通り対面販売が継続されていた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。だが高円寺店のセルフサービス方式の導入は、利点を理解しながらもスーパーマーケット事業への進出に二の足を踏むことが多かった百貨店などの大手資本によるものとしては先駆けとなったため、業界紙などから注目を集めることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
設立当初は百貨店と同様の対面販売方式で、小型百貨店というべき運営形態であったが、1957年(昭和32年)2月に「スーパーマーケット設立準備委員会」を発足して八幡製鉄所購買会(現・[[スピナ]])の見学や研修会への参加などを通じてセルフサービス方式の導入へ向けた準備を進められた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
1958年(昭和33年)10)1213日高円寺開設した鷹番町2階に木製ゴンドラケは新店舗で開設時からセルフサによるオープン陳列方式の導入を行った1号店であるのみならず、部門別に色分けした名刺大の札を商品に添付し、それを基にレジで精算を行う方式で食品売り場にもセルフサービス方式導入しておりスーパーマーケット事業参入高円寺店で実験をさらに一歩進めるものとなった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。ただし、この鷹番町店でも食料品全て踏み出セルフサービス方式とことはできず、対面販売部分が残る状態となっていた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
この高円寺店へのセルフサービス方式の導入に当たっては、生鮮食料品の販売効率が現状でも高かったうえ、当時は予め包装などを行っておくプリパッケージができない商品と考えられていたことから、1階の食料品売り場は従来通り対面販売が継続されていた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
しかし、高円寺店のセルフサービス方式の導入は理論を理解しながらもなかなかスーパーマーケット事業への進出に二の足を踏むことが多かった百貨店などの大手資本によるものとしては先駆けとなったため、業界紙などから注目を集めることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
その後、1959年(昭和34年)3月27日にでは初の本格的なスーパーマーケットとして、[[日本住宅公団]]桜堤団地内に鉄骨造り1階建ての武蔵境店を開設した際には、様々な合理化策を導入すると共に、その成果を委員会を設けて検証するなどスーパーマーケット事業の本格的な展開を目指した実践と研究を重ねて行った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
1958年(昭和33年)12月13日に開設した鷹番町店は当社が新店舗で開設時からセルフサービス方式の導入を行った1号店であるのみならず、部門別に色分けした名刺大の札を商品に添付して、それを基にレジで精算を行う方式で食品売り場にもセルフサービス方式の導入しており、高円寺店での実験をさらに一歩進めるものとなった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
ただし、この鷹番町店でも食料品全てをセルフサービス方式とすることは出来ず、対面販売部分が残る状態となっていた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
セルフサービス方式の導入を進めるうえでは、商品の事前包装や値札付けといったプリパッケージ技術が必要であったことなどが、こうした漸進的な導入の背景となっており、当社が全商品をセルフサービス方式で販売するようになったのは1959年(昭和34年)11月に開設した荻窪店が最初の店舗となった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。プリパッケージで問題を抱えていたのは、先述した食料品だけでなく、衣類や雑貨類などでも同様であり、価格のみならず、素材や大きさ、洗濯方法なども付記した包装の導入などのセルフサービス方式に合わせた商品の形態が模索され、実践に移されていくことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
その後、1959年(昭和34年)3月27日に当社初の本格的なスーパーマーケットとして日本住宅公団桜堤団地内に鉄骨造り1階建ての武蔵境店を開設した際には、様々な合理化策を導入すると共に、その成果を委員会を設けて検証するなどスーパーマーケット事業の本格的な展開を目指した実践と研究を重ねて行った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
また、商品を各店舗にスムーズに配送するために、1961年(昭和36年)12月に東横線[[都立大学駅]]の高架下にベルトコンベヤーを導入した本部検品所と商品倉庫を兼ねた施設を開設して合理化を図った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。その他にもメーカーの販促活動の機会に安く大量に仕入れるなど大量仕入れ・大量販売というスーパーマーケット事業の強みを生かすための仕入れ政策にも取り組み、徐々にスーパーマーケット事業を軌道に乗せて行くことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
セルフサービス方式の導入を進めるうえでは、商品の事前包装や値札付けといったプリパッケージ技術が必要であったことなどが、こうした漸進的な導入の背景となっており、当社が全商品をセルフサービス方式で販売するようになったのは1959年(昭和34年)11月に開設した荻窪店が最初の店舗となった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
1964年(昭和39年)7月に開設した三軒茶屋店では中央食品(現・[[セントラルフーズ]])による完全包装された精肉販売が導入され、店舗における厨房機能の縮小と大量陳列による買い易さが両立することで更なる合理化が図られることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
プリパッケージで問題を抱えていたのは、先述した食料品だけでなく、衣類や雑貨類などでも同様であり、価格のみならず、素材や大きさ、洗濯方法なども付記した包装の導入などのセルフサービス方式に合わせた商品の形態が模索され、実践に移されていくことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
また、商品を各店舗にスムーズに配送するために、1961年(昭和36年)12月に東横線都立大学の高架下にベルトコンベヤーを導入した本部検品所と商品倉庫を兼ねた施設を開設して合理化を図った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
その他にもメーカーの販促活動の機会に安く大量に仕入れるなど大量仕入れ・大量販売というスーパーマーケット事業の強みを生かすための仕入れ政策にも取り組み、徐々にスーパーマーケット事業を軌道に乗せて行くことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
1964年(昭和39年)7月に開設した三軒茶屋店では中央食品(現・[[セントラルフーズ]])による完全包装された精肉販売が導入され、店舗における厨房機能の縮小と大量陳列による買い易さが両立することで更なる合理化が図られることになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
こうしてセルフサービス方式の導入を進めたことにより、合理化が進んだ半面で店員と顧客との間でのふれあいが不足しがちになることから、それを補って顧客の固定化を図ることを目的に1961年(昭和36年)2月に「東光セルフサービスチケット」を導入するなどセルフサービス方式の欠点の是正策も並行して導入された<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
=== ショッピングセンター形式の大型店の出店 ===
 
1971年(昭和46年)4月に[[京王線]][[調布駅]]から100mの場所に建設された地下1階・地上8階建てのビルの地下1階から地上3階までを使用して当社初の[[ショッピングセンター]]となる調布店('''調布とうきゅう''')を開設し、大型店の運営に参入することになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
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こうした大型店舗でのテナントの導入はその後も続けられ、当社としては2番目のショッピングセンターである厚木店では地元の老舗などからなる暖簾街の導入が図られ、水戸店では外国の有名メーカーのライセンス生産によるファッションを扱う売り場の導入をしたほか、水戸店では[[陶器]]類も扱うなど徐々に品ぞろえを拡充していくことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
1971年(昭和46また同)1010月に開設した大和店では郊外型の週末中心の来客を想定して、[[喫茶店]]や[[ビアガーデン]]などの飲食施設や遊戯施設、休憩所など物販以外の施設の充実を図った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。同年11月に[[鎌倉駅]]前に開設した鎌倉店では、百貨店や専門店が当社のようなスーパーに陳列されるのを嫌がるような海外メーカーの服などを扱ったため、取り扱いを中止させようとする動きが一部で見られるような状況まで生じた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
同年11月に[[鎌倉駅]]前に開設した鎌倉店では、百貨店や専門店が当社のようなスーパーに陳列されるのを嫌がるような海外メーカーの服などを扱ったため、取り扱いを中止させようとする動きが一部で見られるような状況まで生じた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
このように大型店の出店に伴い、衣料品や雑貨類の販売比率が増大することになり、店舗間の販売力などに大きな差が生じたことから、店舗を規模や立地などで5分類して各々の戦略を立てる形へ変化していくことになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
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=== 関連会社の設立や吸収による商品力の強化 ===
1971年(昭和46年)8月20日に渋谷米穀店と荻窪米穀店を母体にして東光食糧販売株式会社(現・東光食糧)を設立して米穀の精製・販売に乗り出し、1973年(昭和48年)7月に当社の青果部門のテナントや直営青果部門への納入業者であったミツバ商店を傘下に入れて東光青果を設立して青果部門を直営化した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
同年10月には水産部門の東光水産、同年12月25日に東光デイリー食品株式会社(現・東光食品)を設立して、1974年(昭和49年)1月30日に水戸内原工場を完成させて同年8月9日から日配品の製造・販売に乗り出すなど食品の販売力強化を目指した関連会社の設立を進めた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
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=== 社名変更と店舗網の見直し ===
1974年(昭和49年)に売上高が1000億円を突破して東急百貨店と共に東急グループの流通部門の基幹企業となったことなどを理由に1975年(昭和50年)3月1日に'''株式会社東急ストア'''に商号変更した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。それに合わせて定鉄商事の札幌東光ストアも'''札幌東急ストア'''へ店名変更した<ref name="nissyoku-1997-12-3-24G">“定鉄商事・札幌東急ストア特集 25周年に寄せて 日本ハム・大社啓2社長”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (1997年12月3日)</ref>。また、1975年(昭和50年)11月1日に生活情報誌「ファミリー109」を創刊している<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
それに合わせて定鉄商事の札幌東光ストアも札幌東急ストアへ店名変更した<ref name="nissyoku-1997-12-3-24G">“定鉄商事・札幌東急ストア特集 25周年に寄せて 日本ハム・大社啓2社長”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (1997年12月3日)</ref>。
また、1975年(昭和50年)11月1日に生活情報誌「ファミリー109」を創刊している<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
その一方でグループの開発戦略上の役割を果たした店舗などを中心に、1978年(昭和53年)12月に狭山店を閉鎖したのを皮切りに、1979年(昭和54年)3月に元石川店、同年7月に本八幡店と溝の口店(初代)、同年8月につくしが丘店、同年12月に大谷ロ店、1980年(昭和55年)1月に三軒茶屋店と上大岡店、同年9月に水戸店、同年12月に久が原店と2年強で10店舗の閉鎖を行うなど店舗網の見直しを進めた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
こうした店舗閉鎖だけでなく、1979年(昭和54年)11月に伊勢原店を増築して増床し、1980年(昭和55年)2月には五反田店を都市型大型店として新装開業したほか、同年4月には厚木店で鮮魚など生鮮食料品売場の強化を図ったのを皮切りに各店で生鮮食料品売り場の強化を図り、当社の初期の大型店である調布店や鎌倉店なども大型店の大規模な改装を進めて黒字転換を目指すなど店舗網の強化を図った<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
そうした大型店強化の一環として、東急グループが開発を進めていた[[多摩田園都市]]全域を商圏として、延べ床面積約19,270[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]に9,492m<sup>2</sup>の売り場を配した大型店であるさぎ沼店(現:フレルさぎ沼店)を1978年(昭和53年)9月に開設した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。さぎ沼店は食品や衣料品だけでなく、家具やインテリアなどの住関連商品まで幅広く取り扱うと共に専門店街も充実させ、1980年(昭和55年)度に当社で初めて年間売上高が100億円を突破する当社の主力店の一つとなった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
さぎ沼店は食品や衣料品だけでなく、家具やインテリアなどの住関連商品まで幅広く取り扱うと共に専門店街も充実させ、1980年(昭和55年)度に当社で初めて年間売上高が100億円を突破する当社の主力店の一つとなった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
さらに、1984年(昭和59年)9月には国鉄(現在のJR) 大森駅ビルプリモの開設に伴って大森店を同ビル内に移転して71店舗のテナントを併設した大型店とし、翌年1985年(昭和60年)10月に取手駅西口駅前再開発事業によって建設された地下1階・地上8階建てのビルほぼ全館を借り入れて取手店を開設したほか、同年度には中央林間店を開設するなど大型店の出店を進めた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
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こうした大型店は順調に売り上げを伸ばし、当社はさぎ沼店と五反田店、中央林間店、取手店と年商100億円を超える店舗を4店舗持つようになった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
また、この間の1982年(昭和57年)12月15日に[[東京証券取引所2]]第二部に[[上場]]し<ref name="tokyu-annual-report-142-2011" />、1987年(昭和62年)8月1日に東京証券取引所第一部へ昇格しており<ref name="tokyu-store-history-1989" />、東急グループとしては10番目の一部上場企業となった<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
=== 食品特化の小型店の展開 ===
大型店の強化の一方で食品を中心にして日用雑貨や肌着などの日用衣料品を扱う食品スーパー業態の店舗として1988年(昭和63年)4月に成田線布佐駅前に布佐店、同年11月に中央線[[阿佐ヶ谷駅]]前に阿佐谷店と根岸線[[根岸駅]]前に根岸店を各々したほか、既存店13店舗の全面改装を実施するなど小型店の強化も並行して進められた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。これら小規模店舗の改装においては、住関連商品や日用品の取扱の縮小と生鮮食料品の強化を図り、食品スーパーへの業態特化が図られた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
これら小規模店舗の改装においては住関連商品や日用品の取扱の縮小と生鮮食料品の強化を図り、食品スーパーへの業態特化が図られた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
こうした小型店戦略の一環として半径500mを商圏とした売場面積250から500m<sup>2</sup>の小型スーパーでドミナント戦略を強化することになり、1987年(昭和62年)8月にマインズ第1号店桂台店(売場面積445m<sup>2</sup>)を開店したのを皮切りに多店化を進め、1988年(昭和63年)5月には'''株式会社マインズ'''として独立させた<ref name="tokyu-store-history-1989" />。マインズ店舗では、生鮮食品を新設した加工センターで一括加工で店内での処理廃止して床面積の約80%を売り場とすることや、[[パートタイマー]]の比率を高めることで正社員を減らすなどで経費を抑制すると共に、午前10時から午後9時までという当時としては長時間の営業をすることで採算確保を目指した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
このマインズでは、生鮮食品を新設した加工センターで一括加工で店内での処理廃止して床面積の約80%を売り場とすることや短時間労働者(パート)の比率を高めることで正社員を減らすなどで経費を抑制すると共に、午前10時から午後9時までという当時としては長時間の営業をすることで採算確保を目指した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
=== 東急グループの開発に乗った出店 ===
東急グループが中心となって開発が進められていた[[千葉県]]の[[あすみが丘ニュータウン]]の一角にある[[土気駅]]前に開設された「バーズモール」内に<ref name="samejima-machinami-49-2004-3">鮫島泰洋 『[まちなみ計画]“街(ハード)”から“まち(ソフト)”へ あすみが丘そしてあすみが丘東へ(千葉市緑区)』 家とまちなみ 第49号 ([[住宅生産振興財団]]) (2004年3月)</ref>1989年(平成元年)4月に土気店を開設したほか<ref name="tokyu-store-history-1989" />、同年6月には東急沿線に新丸子店と溝の口店(2代目)を開設した<ref name="tokyu-store-history-1989" />。
 
東急グループの住宅開発に合わせて[[筑紫野市]]美しが丘南に<ref name="nissyoku-2006-11-29-4d">“東急ストア、筑紫野とうきゅう閉店で九州撤退”. [[日本食糧新聞]](日本食糧新聞社). (2006年11月29日)</ref>1993年(平成5年)5月18日に筑紫野店を開店して[[九州]]へ進出したほか<ref name="nissyoku-1993-5-21-5">“東急ストアが最大規模で九州に初進出”. [[日本食糧新聞]](日本食糧新聞社). (1993年5月21日)</ref>、あすみが丘ニュータウン中心部に2000年(平成12年)10月6日に開業した<ref name="nissyoku-2000-10-6-3G" />ショッビングセンター「プランニューモール」<ref name="samejima-machinami-49-2004-3" />の核店舗として土気あすみが丘店を開店する<ref name="nissyoku-2000-10-6-3G" />など東急グループ開発を生かした出店戦略を展開した。
 
=== 東急沿線への回帰とグループの再編 ===
だがその後は東急沿線から遠く離れた地区での店舗網の縮小を進め、2003年(平成17年)1月31日に'''北見東急ストア'''を解散して5店全店舗を閉鎖し<ref name="nissyoku-2002-10-28-2E">“北見東急ストア解散へ、大型店進出で経営悪化”. [[日本食糧新聞]](日本食糧新聞社). (2002年10月28日)</ref>2007年(平成19年)3月には近隣に大型商業施設が相次いで開業した影響で赤字が続いたため筑紫野店を閉店して九州から撤退し<ref name="nissyoku-2006-11-29-4d" />2009年(平成21年) 10月30日には札幌東急ストアが株式会社[[アークスグループ|アークス]]の子会社となって東急グループから離脱する<ref name="nissyoku-2009-9-16-1a">清水豊 (2009年9月16日). “アークス、札幌東急ストアを子会社化 道内初、売上げ3000億円超規模へ”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社)</ref><ref name="nissyoku-2009-11-9-2a">“札幌東急ストア、東光ストアに社名変更”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (2009年11月9日)</ref>など東急沿線から遠く離れた地区での店舗網の縮小を進めた
 
こうした首都圏以外の遠隔地に限らず、2010年(平成22年)2月期に青山店など5店舗、翌年2011年(平成23年)2月期に取手店など首都圏でも沿線以外の不採算店舗の整理統合を進める一方で東急沿線の駅前立地に小型店を出店するなど親会社の沿線等への店舗網の集約を進めている<ref name="nikkei-mj-2009-10-7">“食品スーパー、店舗再配置を加速、東急ストア、来期も5店前後閉鎖”. [[日経MJ]](日本経済新聞社). (2009年10月7日)</ref>。不採算店の閉鎖は、[[2013年]](平成25年)8月に馬込店、さらに[[2014年]](平成26年)だけでも錦糸町オリナス店(1月10日閉店<ref name="nissyoku-2014-1-15-14">“カスミ、東京23区内初進出 錦糸町に居抜き出店”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (2014年1月15日)</ref>)・金沢シーサイド店(1月20日閉店<ref name="taihan-news-2014-1-23-5">“閉店ニュース 1月20日(月)金沢シーサイド東急ストア”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2013年1月23日)</ref>)・橋本店・武蔵小山店<ref>パルム武蔵小山・武蔵小山駅ビル両店は存続</ref>・上尾店・矢口店・プレッセ日本橋店・中野店・白金台店が閉店するなど、東急沿線を含めた首都圏でも進められた
この不採算店の閉鎖は、[[2013年]](平成25年)8月に馬込店、さらに[[2014年]](平成26年)だけでも錦糸町オリナス店(1月10日閉店<ref name="nissyoku-2014-1-15-14">“カスミ、東京23区内初進出 錦糸町に居抜き出店”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (2014年1月15日)</ref>)・金沢シーサイド店(1月20日閉店<ref name="taihan-news-2014-1-23-5">“閉店ニュース 1月20日(月)金沢シーサイド東急ストア”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2013年1月23日)</ref>)・橋本店・武蔵小山店<ref>パルム武蔵小山・武蔵小山駅ビル両店は存続</ref>・上尾店・矢口店・プレッセ日本橋店・中野店・白金台店が閉店するなど、東急沿線を含めた首都圏でも進められた。
 
2011年(平成23年)5月20日に<ref name="nissyoku-2011-6-1-22a">“惣菜特集:東急ストア、選ぶ楽しさ追求 女性目線で商品開発 「フレルさぎ沼東急ストア」”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (2011年6月1日)</ref>当社の総合スーパーの一つであるさぎ沼店にテナントを大幅に導入してショッピングセンター「フレルさぎ沼店」とするなど大型店についてはショッピングセンターへの業態転換も模索している<ref name="nissyoku-2011-3-16-12a">“東急ストア、GMSをSCに転換 「フレル」で新展開”. [[日本食糧新聞]] (日本食糧新聞社). (2011年3月16日)</ref>。
 
また、2008年(平成20年)には上場廃止となって、同年7月1日付で簡易株式交換により東京急行電鉄の完全[[子会社]]となっている<ref name="tokyu-annual-report-142-2011" />。
 
== 年表 ==